ペペシのアメリカ留学・その1😆✨
高校3年の9月、友人たちが大学受験に向けて緊張感が高まってきている中、私はなぜか突然アメリカへ留学します。
きっかけは、高校1年のときの友人。
入学と同時に私と意気投合しましたが、彼は1年生の9月から日本の高校を休学し、アメリカへ留学しました。
1年後に帰国した彼は、なんと当時の日本では珍しいドレッドヘアーに!😆
留学前は、中身も外身も地味な普通の男の子だったのが、見事に垢抜けて帰国しました。
とは言え、外見が変わったからと言って付き合い方が変わるわけもなく、留学前と同様の友人関係が復活します。
当時、高校2年の私はと言えば、頭の中は軟式テニスと恋愛のことばかり。勉強貯金を使い切ってしまった自覚はあったものの、勉強の優先順位ははるか下のまんまという生活を送ってました。
その頃は、大学への進学は一浪が当たり前。受験に向けた勉強は、高校3年の部活を引退してからでいいやというのが、特に男性陣のおおかたの考え方でした。
当然私もそんな風に考えている一人でしたが、友人のアメリカ留学の話を聞いて、行ってみたい気持ちが徐々に高まります。
人間、心が動くと、後からそれを正当化するための理由を考えます。私も自分が留学をするための真っ当な理由を、いくつか考えだしました😁
どうせ一浪するのだから、一年アメリカに行っても同じこと
その時間、日本ではできない経験をすることは、これからの自分に絶対プラスになる!
英語がきっとうまくなるから、入試に有利!
英語が好きでも得意だったわけでもなく、アメリカにとても興味があったわけでもなく、友人の話を聞いて、もうどうしようもなく心が動いてしまったという、とても短絡的な若者だったということです😅
17歳の男の子ですから、あわよくば外人の彼女ができたりしてと😍、当時おつきあいしている彼女がいたにも関わらず、よからぬ妄想をしていたことも、あったりなかったり🤣
高校2年の秋ごろに、留学したいという話を親にしました。当然びっくりしていましたが、ありがたいことに父も母も私の意思を尊重してくれました。
特に父は、勉強より人生経験に重きを置くような人でしたから、さらに私の背中を押してくれたように記憶しています。
その後、友人が利用した「インターナショナル・フェローシップ」という団体を通じて留学することがとんとん拍子に決まり、翌年、高校3年の9月に留学をすることとなりました。
ただ・・・
ここで、とても悲しい別れがありました。
当時、一緒に暮らしていた父方の祖母。私が生まれたときから、ずっと一緒だったおばあちゃん。
アメリカ行きが決まってから癌が見つかり、余命半年と言われてしまったのです。
正直、アメリカ行きをどうしようかと考えました。真剣に迷いました。
アメリカ留学中に、おそらくおばあちゃんは逝ってしまいます。。
けれど、ここでも背中を押してくれたのは、父でした。
「おまえの人生にとって、貴重な経験を得られる機会だから行きなさい」
私は、行くことを決断しました。
自分の人生の中で、ものすごく大きな最初の決断だったと思います。
1981年9月2日、旅立ちの朝。
おばあちゃんは、玄関先まで見送ってくれました。
涙いっぱいのおばあちゃんの目を、今でも忘れることはできません。
「たかし・・・」
最後のおばあちゃんの言葉です。
「行ってきます」
私はそう言うのが、せいいっぱいでした。
「後ろ髪を引かれる」と言いますが、全身で、本気でその言葉を感じながら、自宅を後にしました。
翌年1月3日、おばあちゃんは亡くなります。
今のように簡単に行き来ができる時代ではありません。すぐにオンラインで繋がれる時代でもありません。
私がその事実を知るのは、亡くなってしばらくしてからの、父からの便りでした。
覚悟はしていたとは言え、まだわずか18歳の青年には、これ以上無い辛い便りです。
手紙を握りしめながら、自室のベッドの上を転がり回り、声を殺しながら号泣しました。
頭の中で、何かがパンクしそうな感じでした。
すいません、書いているうちに当時のことが蘇り、ちょっと感情的になってしまいました😅
とても私を可愛がってくれていたおばあちゃんとの別れから始まった、私の留学生活。
けれどそれは、決して順風満帆なものではありませんでした😱
繰り返し、お詫びします😅
留学の話を書き出したら、とても一回の記事で書き終えられませんでした。と言うことで、、、
その2へつづく・・・