「らしさがこんちくしょうを抱えている」小澤南穂子
わたしは、今回十和田という映画監督の役を演じます。
戯曲を初めて読んだ時から、この役のキーワードに、直感というものがあると思っています。
台詞を読むと、十和田は、1秒前に目の前で起こったことや聞いた言葉に、反応して喋っているように思えてくる。
だからこそ、言葉ですぐには伝えきれないことが十和田の中に溢れている。
俗にいう、「芸術家肌」というやつか。
と、少し棘のある感想も浮かべる。
冷たい目線で見ようと思ったら、わたしはとことん彼の敵になれる。
一人称へのこだわりの強さも、言葉選びの独特さも、自分の作品の説明を出来ないような幼い口下手さも。
問題児め。
「馴染め」と言いたくなる。
考えろ。感じるな。頭を使え。自分の心が正しいと思うな。それに従うな。そうすればもっと楽になれる。自分自身でいるのをやめて、恥をかくのをやめろ。もっと上手く背伸びをしろと言いたくなる。
ただそんなふうに思うのは全て、わたし自身が彼と近しいものを携えているからかもしれない。そしてわたしは自分自身のそういう部分をなんとなく抑制している。
そんななか稽古では、十和田の中にある言葉にならないことがシーンを繰り返すたびに紐解かれていくような体験をしています。
十和田の中で溢れている彼が言葉にできないことを、わたしは身体をキャッチャーミットにして受け止めようと努力しています。
十和田が、映画を通して実現したいことは、とても大きい。彼は彼の表現が世界を変えることを強く望んでいて、信じてやまなくて、しかし同時に、その願望が、無謀にちかいということにも、実はちゃんと気づいているから、打ちひしがれている。
創る衝動と、伝わりきらない哀しさが、混同して、溢れて、また、言葉にならない。
十和田としてシーンの中に居て、見える景色。明瞭な言葉を使って説明することが難しい感覚を、他人がなぜだか雄弁で簡潔な言葉でまとめてしまって、オーディエンスがうなずいているという景色。
ー待ってくれ
そうじゃないけど、そうじゃないとは、言えないもどかしさ。悔しさ。
だけど、目の前に見える状況のなかで責めを追うべきなのは、つくり手であるにもかかわらず明確な答えを持たない自分自身だという、焦燥感。
いつの間にか、自分自身にとっての正しさが、みんなの中でまちがいになって、阻止する力を持たなくて、また十和田の思考を止めてしまう。
直感というものの、説得力のなさ。
作中、十和田は映画を見限るようなことを言ってそれ以降また彼が映画を撮ろうとする描写はありません。
自分の中の何かのバランスを、映画と自分という二つの天秤で取るのをやめて、<仲間>と自分で取ることができるように、自分の中の直感の蓋を閉じていくような感覚を、今日おぼえた。「他人と同じ」って、この上なく安心する。
けれどわたしは、正直なところ、十和田が映画から離れることはできないんじゃないかと推測しています。
作品を他者に晒すことで生まれる哀しさは、彼を捕らえて離してはくれない。彼は映画をつくって芸術に携わり続ける限り傷つき続ける。だから逃げてしまう。けれど反対にそういう体験を引きずって、また言葉で伝え切ることのできないものを増やして、育てていく。映画をつくる。その繰り返し。ループ。
十和田は矛盾している。
映画をつくっては哀しさを育て、哀しさを育てては映画をつくる。そしてそのループから簡単に抜け出すことができるほど、彼は爽やかな人物ではない。
プログラミングされたロボットのようには、その行動原理を明らかにすることができないような無防備な粗々しさ。
そしてこういう矛盾は、十和田だけに当てはまることではなくて、おそらくごく一般的な感覚に落とし込むことができて。
「人々は何かしらのコミュニティに属さないと、生きていけない」(十和田の台詞の一部)
ひとが、「寂しさ」を理由に友達づくりに明け暮れつつ、逃げ出しては一人で生きていけると息巻きながら「寂しさ」に付き纏われるという矛盾。
12世紀くらいに、ローマかどこかの皇帝か何かが、孤児の乳児を集めて、世話役に言語を使わず無表情のままで養育することを命じたら、その乳児たちは全員死んでしまったらしい。
21世紀東京。べつに、みんなして寂しいわけでも、みんなして人間関係に疲れてるってわけでも、生きることに必死というわけでも、生きることに絶望しているわけでもないのだけれども。
けれども、今日も、多くの人が、自分が/を傷つけるかもしれない誰かに挨拶する。
いろんなことが解き明かされて、いろんなことに説明や正解が求められて、誰しもが何かしらステータスを持っていて、自分のことを測って管理できるような時代であっても、矛盾は矛盾のまま存在している。
どうして人と会うの?
どうして映画を撮るの?
どうして話すの?
どうしてカメラを構えてるの?
どうしてつながりを持つの?
どうしてやめられるのにやめないの?
ーだってほら、「いつもよりおれのハートビートが高鳴っているの。」
………いや、おいおい。おいおいおいおい。
もっと、ちゃんと、言葉にしてくれ。
説明してくれ。
答えをくれ。
決まった尺度をくれ。
信じさせてくれ。
安心させてくれ。
自分自身を頑張って見つけてしゃんと立つより、依りかかれたら、楽だ。
頭を下げられちゃえばいい。
首を縦にふれちゃえばいい。
それが、できない。
………こんちくしょうだな、と思う。
十和田を演じる際には、この、客観的には到底説明のつかないこんちくしょうを主観的に紐解く作業を大切にしたいと思います。そしてこのこんちくしょうがどんなに上手に紐解かれても、不器用に絡まったままの状態で、演じられたらいいな、と思っています。
彼が言葉にしない部分、できない部分まで想像して、なるべく彼を人間と捉えて、わたしの感覚と重ねながら、演じるということを通してしか見ることのできない十和田にのみ見えているであろう景色を見るという体験がしてしみたい。
小澤南穂子(いいへんじ、山口綾子の居る砦)
俳優。いいへんじ、山口綾子の居る砦、という二つの団体に所属し、後者では脚本演出も行っている。特技は側転。(持ち前のフィジカルで、フィクションとノンフィクションの狭間をスーパージャンプで飛び越える。英語が得意。編集:石塚より)
次回出演
2023年3月情報未公開