「熱狂と冷静の狭間」中荄啾仁
先日とあるミーティングの場で、
「祭りの中では、それを冷静に見るという姿勢でさえ祭りにノッた姿勢になってしまう」
と言う話題が出てハッとした。
熱狂の中では、それを冷静に見ようとする姿勢さえ、それは熱狂に煽られたものでしかない。
そして都市は混乱している。みんなが、各々に熱狂して生きている。
そんな中で私たちはどんな風に冷静でいられるだろうか。
知は、冷静になりたい私たちに非常に魅力的なものに見える。
歴史やデータは私一人では背負いきれない尤もらしさを担保して、世界を見つめる視座を与える。
混沌とした熱狂が、知の枠組みによってその構造を明確にされて目の前に展開される。
それは株式市場を見つめる興奮に似ている。
いつの間にか、その知もまた熱狂に飲み込まれていく。
私が演じる博士は、そんな熱狂と冷静の狭間で大いにバランスを崩しながら立っているのではないかと思う。
正直この熱狂に、冷静に善悪などどうでもいい。
だれが悪者だとか、ヒーローだとか、客観的な判断なんてきっと存在しない。
じゃあ、自分が作るしかないじゃないか。
自分が、自分の内で作るしかないじゃないか。
それは、都市の混乱を、人混みで肩をぶつけてもぶつけていないふりをして歩くための術だと思う。
博士は、そんな風にして、知に忠実にして、そして弄ばれている。
私は正直、祭りが苦手で、その上知的な議論を楽しくノッていくというのが怖くて、だからもう諦めて肩をぼこぼこぶつけて立っていればいいじゃないかと思ってしまう。たおれてしまったら仕方ないじゃないかと。
ただ、それは理想論で。
私は、うまくぶつかった肩を知らんぷりする術を知っている。
博士のような人を嫌悪してしまいながら、私の内に確かにあるそういう処世術を認めて、責めることもできず、ただいい加減な自己嫌悪にしてしまう。
私は正直博士が嫌いだ。
でも、知的にハイになる博士を演じているとスリリングで得も言われぬ愉しささえある。
そしてそれを、演じている私が愉しさ吞まれてしまわないよう、指先第一関節で私の自己嫌悪を繋ぎとめる。
博士としても、そして博士を演じる俳優としても、そして今の都市を生きる私としても、この熱狂と冷静の狭間でへんちくりんな姿勢をしながら綱渡りをしている。
これがリアルだなと、ひしひしと感じる。
熱狂も冷静も、善も悪も混乱してしまった都市で、私達はどんな風に世界を見ていけるだろうか。
博士は、そして『斗起夫』は、そんな風に世界をすり抜けて、縦断して見せてくれる。
劇場にお越しいただいた方にも、伸るか反るかではないところで、世界を見つめていただけるのではないかと思います。
劇場でお待ちしております。
中荄啾仁(劇団夜鐘と錦鯉)
劇団夜鐘と錦鯉主宰。普段は照明、演出、脚本を中心に活動。ぺぺぺの会には初参加。2019年『夢の旧作』を見てびっくりした。
(編集:WIPでは斗起夫を演じた。どんな役でもマサシくんの優しさが滲み出ていいひとに見えちゃう。石塚より)