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私は実家にいるとダメになってしまう

今回の記事は書くかどうかだいぶ迷って、それでもなかなか心が決まらなくて、身内の恥のようなこともあるので、どうしようかと思ったのですが、今後の為に書き記しておきます。

3/3父から珍しく電話。
母の調子が悪い。食欲が全くなく、ずっと倦怠感があると言う。

少し前からそんな話は聞いていたので、翌日3/4に朝から新幹線に乗り博多へと向かいました。ちなみに私は大阪在住、両親は二人で福岡市内に住んでいます。

福岡に着くと、確かに母は少し痩せており、何より元気がない様子。どこが痛いとかではないが、とにかくご飯が食べられないとの事。もちろん身体がそんな調子なので、食事の用意や家事も辛いと。

そうだろうな。食欲がないのに献立なんか浮かぶわけがないだろうなと。
そういうことで、私が代わりに家事を引き受け、母にはゆっくりしてもらうことに。

色々調べたら、高齢者の食欲不振は様々な原因があるようで、どちらにせよ、少しずつでもいいから食べられるものを食べられるだけ食べたらいいと思い、小さなおにぎりを用意したり、お粥炊いたり、バナナを常備したりしていました。

食べたり、食べなかったりの日々が一週間ほど続いて、ある日母が発熱。その日の夜には熱は下がったものの、嘔吐。

これはやはりただ事ではないと、翌日かかりつけ医を受診。血液検査をしてもらいました。

午後にかかりつけ医から電話があり、血液検査の数値が良くないから、すぐにでも大きな病院に入院する様にとのこと。3/17でした。
急いで入院支度をして、父が大きな病院に送って行き、入院。前日に発熱があったので、病院ではコロナ患者扱いです。

個室に入れられて、24時間点滴。絶食療法で、ずっと安静。外部には出られず、トイレも部屋の簡易トイレで済ますことに。

それでも点滴が効いたのか、母の容体はみるみる回復して、2,3日後には退屈だと言い出しました。

入院時は頭もというか、意識もぼんやりしていて、本当にどうなることやらと心配していたのですが、これなら安心です。

時系列が前後しますが、母はそんな状態ですし、父は軽度のアルツハイマー型認知症で物忘れが激しいです。
だから主治医も診断名、これからの治療方針、手術になった時のリスクなどを彼らに説明していてもなかなか響かず、不安だったと後で私が主治医と電話で話して聞きました。

以後、大切な連絡は必ず私の携帯宛てにしてもうらうように先生、病院に念押し。

そうこうしているうちに、三連休が明け、3/22の血液検査の結果が出て、快方に向かっていることがわかり、点滴治療終わり。PCR検査陰性が出て大部屋に移動。お粥から始める治療に変わったと連絡がありました。

私と父は心の底からホッとしてその夜は久しぶりにぐっすり眠れました。

そして母の退院が決まった3/24。
朝ご飯を終えて、一通り朝の家事を済ませて父に買い物が必要だから、買い物行く?と聞いたら行かないと。

へー。必要なものなのにな。

仕方ないから私一人で出かけようかなとエコバッグを持って数歩、歩いたところで私の頭の中でブチって何かがキレてしまいました。

父も母もとうに80を過ぎており、今回のような出来事は初めてではないのです。
具合が悪く、父も認知症なのだしと、私は黙って家事一切を引き受けていました。

別に私は家事を嫌いでもないし。

でも。

でも。

ここは何かが違う!

あえて言わせてもらうならば、父も母も家の中の事は女性が全てやるべきだという性的役割分担の意識がきつい。きついなんてものではない。それにがんじがらめになっている。

だから今回のようなことがあっても真っ先に連絡してくるのは私と決まっている。

弟二人にはやらせない。やらせる気もない。もちろん弟達もそのように高みの見物。

いやいやいや。

江戸時代ならともかく、今令和よ?

私は使い勝手の悪い台所で、本当は家事動線を考えて色々変えたいけど、そうしたら母がまた混乱するから、自分の家で30分もあれば出来る事を1時間も2時間もかけてやっている。

無駄に広い家は風呂もリビングも掃除が大変過ぎて、ずっと腰が痛い。

父も母も最初こそ悪い、ありがたいと言っていたが、だんだんそれに慣れてしまって、最終的に買い物には行かないなどとわがままを言い出す。

あかん。

これでは私が病む。

ここでは私は人権がない。

ただの女中や。

いや、主治医とやり取りもするから、母の手術の決断もするからめちゃくちゃ責任の重いミッションを抱えながらの滅私奉公やん。


あかん。


大阪帰ろう。

そう思い、急いで身支度をして新幹線に飛び乗った。

父は自分が言った事を思い出せなくて、何が?と、ポカンとしていたが、 
もうそれは認知症だから仕方ない。

私は認知症の父が許せないのではない。

あの家に何十年にも渡って染みついた女は家事をするべき、女は誰かのケアをするべき、女はいつも誰かを気遣うべきという、あの男尊女卑的なものが許せないだけだ。

私が私でなくなるあの感覚。

私は好き好んで女性に生まれたわけではない。

それに私には大阪での生活もある。

夫にはずいぶん不便な生活を強いた。
夫は自分の面倒くらい自分で見られるからと言ったが、本来人はそういう生き物でなければならないのではなかろうか。

まぁ、2,3日後に無事母も退院したので、なんとかやっている様子だ。

もうしばらく実家には近づきたくない。

あそこは私の人権を根こそぎ略奪されるような気に満ち満ちている。

もちろん、私よりずっとタフな状況でずっと辛い遠距離介護を続けておられる方々が全国にたくさんおられる事は重々承知している。

そのような方々には頭が上がらないし、そのような方からしてみれば、まだ私は恵まれているのかもしれない。

でも今の私のキャパシティではこれが精一杯だった。

大阪に帰ってきて、一人で近所の和食屋さんで地酒と季節の魚や野菜料理を楽しんだ時には一気に物心両面での緊張がほぐれた。

遠距離介護、これからも避けては通れないが、どうやって立ち向かうか、戦略を立てなくてはだ。

戦いは始まったばかりだ。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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