私を守ってくれた「ねばならない」を手放す
前回、初めてnoteに記事を一つ書いてみたのだけど、、、
インプットしたことをそのまま吐き出したら、堅っ!!
堅苦しすぎて、読めない…(笑)
面白く楽しく学んだことなのに、私の脳内フィルタを通したら、こんなに堅苦しい文章になっていて、ショック…
自分が感じたことを織り交ぜながら、私の言葉で伝えられるように、いつか同じテーマでもう一度書いて比べてみようと思います。
さて、今回は、
前回なぜ、そんなに堅い文章だったのか…
についてのお話です。
私に色々なことを教えてくれている横山さんに言われて目から鱗だったこと
腑に落ちたことを整理がてら書いてみようと思います。
書いていくうちに柔らかくて伝わりやすいものになっていくと思うので、成長記録として笑ってください。
地の果てまで落ち込むわたし
私は、自分の理想像と違う行動をしてしまった時に、ものすごく落ち込むんです。地の果てまで・・・
落ちて、落ちて、落ちまくる。
どういうことかというと、、、
ミスをしてしまったとする
→(あぁ、もう信用を失った。。私はもうおしまいだ・・・誰からも信用されなくなって、必要とされなくなるんだ。)
こんな感じ。笑
横山さんいわく
私は「分厚い経典を持っている」のだそう。
落ち込んだ時の脳内処理
どういうことかというと、、
私の解釈はこう。
わたしは「ねばねば教」の信者
この「ねばねば教」
特徴は、自分の心身が傷つかないように身を守るための方法を説いてくれる有難い宗教。
入信すると、透明な経典を渡されるんだけど、その経典は全ページ白紙で、自分が経験して学んだ教訓やあるべき姿、自分の理想像を書き記していく。
ルールは簡単
文末が「●●ねばならない」で終わること
同じ経験をした人でも、その人の価値観によって、経典の内容は異なってくる。
たとえば、さっきの私の落ち込み、
「ちょっとミスをした。隣の人がフォローしてくれた」
そんな出来事があったとき、経典には
「ミスをしたら、隣の人に迷惑をかけるし、ダメな奴だと思われる。二度とミスをしないようにしななければならない。」
こんな感じで条文が出来上がる。
これが、
「誰にでもあるけど、そのミスをしたら庇ってくれる人もいる。1人で仕事をしているわけではないので、周りに感謝しなければならない」
くらいだったらいいのだけど。
どちらにしても、「ねばねば」してるけど
自分が経験を重ねるたびにどんどん分厚くなっていくその経典は、過去の経験での辛い経験を二度とないように自分を守ってくれる有難い指南書になっていく。
だから、そういうネガティブなことが沢山書かれた経典が出来上がる。
…そう考えると、ちょっと怖い
自分が信者かどうかを知る方法は「自分の口ぐせを知る」こと
「●●すべき」「●●しなければ」こんなことを言っていたら、あなたも信者かも。
経典は、私の脳と連動していて勝手にインプットもアウトプットもしてくれるハイテクな優れもの。
自分を守ってくれるから、素晴らしいものなんだけど、守られすぎ、過保護になってしまうのが、この経典のネックなところ。
経典が分厚くなるにつれて、どんどん「ねばねば」してくる。
脳内の処理方法を書き替える
自分の経典に書かれている条文を全部曖昧にすることが必要なんだって。
どういうことかというと、、、
今まで信じていた「●●ねばならない」の一つ一つを疑ってみること。
とは言っても、経典に何が書かれているのか、脳内にあると言ったけど、意識的にそれらを思い出すことはなかなか難しい。
だから、自分の言葉を注意深く聞いてみて。そうすると気づく時がある。
気づいたら、「???」を投げかけてみる
「本当にそうでなければいけない?」 「そうしなかったらどうなるの?」 「本当に誰も信じてくれなくなるの?」
「この世から追放される?」 「命を失うほどのこと?」
そうすると、
あれあれ?
この条文は今までの私を守ってくれていたけど、もう卒業していいのかもしれない。
と思える。
私は、そうやって一つ一つの条文を手放して、最後には、私を守ってくれていた「ねばねば教」から卒業する日を夢見ています。
まだまだ時間がかかりそうだけど、少しづつ、少しづつ。
同じ「ねばねば教」信者の方は、
ぜひ自分の経典に「???」を投げかけてみて。
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