見出し画像

人を嫌うとは何だろうか?

嫌な奴は常にいるものだ。職場でも、電車の中でも。そんな時はこう考える。目の前の嫌な奴は、昔の嫌な奴を忘れさせてくれる。

かつて『嫌われる勇気』という本があった。今でも本屋で売っているのかもしれない。他人に合わせてばかりいないで、嫌われることも恐れずに自由に生きていこうという内容だったと思う。嫌われる状況でも自分の態度を示していくというのだ。

一方、嫌う側にだってあからさまに相手に嫌いという態度は示しにくいだろう。嫌う側にだって勇気が必要だったりするはずだ。

福沢諭吉は『学問のすすめ』の中で、人間のくせに人間を毛嫌いするのはよろしくないと言っている。人を嫌うのは、いけないことなのだろうか。

周りを見回すと、うさん臭いと思うような奴は常にいるものである。

態度がでかい。他人を見下している。期待に応えない。煩わしい。上品ぶっている。自己中心的である。噓つきである。声がでかい。邪魔くさい。目つきが悪い。挙げていくとキリがない。

相手を嫌う理由が殺人や詐欺、名誉棄損などによるものならば、冷静に刑事事件の問題として扱えばいい。そこまでいかなくても、実に多くの嫌いという感情が存在している。生理的に不快だというのだって簡単に解除ができない。自分は普通だと思っていたとしても、案外多くの人を嫌っていたりするものだ。

相手に問題があるのだろうか。それとも嫌だと思う自分にあるのだろうか。前者だと言い張るには、共鳴できる者の存在が必要になってくる。同じような境遇の者を見つけてきて、その口から確認をする。

自分と同じ理由で相手を嫌っていたりすると嬉しくなってしまう。よくない所が次々と挙げられようものなら、顔がほころんで笑いが止まらなくなる。自分が正当化されたことに安堵の気持ちが広がっていくのだ。

逆にその者の口から好きだなどと聞こうものなら、自分の耳を疑うことになる。その者も含めて警戒をしなければならなくなってしまう。嫌いな人間が増大してしまったこと、相談する相手を間違ったことを深く後悔することになる。身勝手だという思いが多少でもあるせいか、どちらなのかで感情が大きく動いてしまうのだ。

以前、自分の部署に年配者が配属になったことがあった。出向先から本社に戻ってきたのだ。電話での声が無駄に大きく、仕事も大したことのない男だった。要領を得ずに周りに迷惑ばかりをかけている。だが、全く反省をしていない。いい加減な爺さんなのである。事務所で平気に屁をして知らんぷりなのである。

あまりに不快なので、私はこの老人を相手にしなかった。声をかけられても慇懃な感じで最低限にだけ対応をした。それが気にいらなかったのか、老人は私に怒りを露わにしていた。だが、全く仲良くする気にはなれなかった。

飲み会の席でもからんでくる始末だったので、あからさまにあなたが嫌いだと言い放ってやった。全く後悔はしなかった。それでいいと思った。私はその老人の1から10までが気に入らなかった。その老人も私のことが大嫌いであったのだろう。だが、別に構わないと思った。しばらくすると、上司が配慮をしたのか、その老人はまた別の部署に異動をしていった。

嫌いな人との関係において対処する方法は、2つ考えられる。嫌いな人のことを考えないようにするか、嫌いな関係のまま受け入れるかである。

嫌いな人のことを考えないとは、敵を許すなり無視するなりして忘れてしまうことである。いじめられたことを覚えていても苦しむのは自分である。誹謗中傷を言われても、本当になめられているわけではあるまい。どうぞご勝手にという態度で相手にしないのだ。

ニーチェは言っている。
自分への評価を気にするばかりに、聞き耳を立てるのはよくない。
人間というのは間違った評価をされるのが普通である。
他人がどう思っているかなんてことに関心を向けては絶対に行けない。


2つ目の嫌いな関係のまま受け入れるというのは、先ほどの私と老人の例である。好き嫌いの人間関係を当たり前の日常としてとらえるのだ。嫌いな奴を嫌いのまま維持する。相手も自分を勝手に嫌っていればいい。それだけの話である。

人というのは愛想が悪いというだけで簡単に他人を嫌ってしまう。だが、期待される愛想というものがあるならば、その期待に応えない愛想というのも当然にある。相手の笑顔よりも少なく笑い、慇懃に挨拶を返してみせる。

「失礼だろ」と口にする者は、その「失礼」という言葉でもって相手に無礼をふるまう。その者の要求する狭いストライクゾーンなんかに応える必要はないはずだ。礼儀における評価基準を否定してしまえば、そもそも礼儀が何なのかという話になってくる。ケンカをするのはたやすいのだ。

人間同士の完璧な調和など永遠にやってくることはあるまい。だからこそ、人の好き嫌いであまり悩まないことである。自然に人を好きになることはあるのだから、自然に人を嫌うことがあっていい。

些細な好き嫌いを気にしてばっかりいると、振り回されてメンタルがもたなくなってしまう。むしろ、嫌われ者の性分として、開き直って生きていくのがいいのかもしれない。


<参考>
『ひとを<嫌う>ということ』 著.中島 義道
角川文庫 平成24年10月10日  11版発行

『超訳 ニーチェの言葉』 著. フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
株式会社ディスカヴァー・トゥエンティワン 2016年10月15日 第1刷

『学問のすすめ 現代語訳』著. 福澤 諭吉、翻訳. 斎藤 孝
ちくま新書 2011年7月15日

『嫌われる勇気』著. 岸見一郎、古賀史健
ダイヤモンド社 2013年12月12日 第1刷発行

怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉  著. アルボムッレ・スマナサーラ
サンガ新書 2009年8月25日 第8刷発行

いいなと思ったら応援しよう!

おぎゅろだ
最後まで読んでいただきまして、ありがとうございます。