私のスーパーヒーロー「藤原基央」
私は彼の孤独感が好きだった。
彼が歌う、紡ぎ出すその唄はいつも孤独と戦っていた。そして、絶望の淵にいた。
私の人生において、その全ての中心にいたのはBUMP OF CHICKENだった。特に藤原基央は私の生活の一部であり、私の理想とする人物そのものだった。彼が作る曲、歌う唄、紡ぎ出す言葉、彼の声、彼の生き様、死生観、そのすべてが私の憧れであり、理想であり、目標とすべき人であり、尊敬するかっこよくて大好きな存在だった。
8月24日、深夜3時過ぎ、その彼が結婚を発表した。私は既に眠りに落ちており、友人たちからの尋常でないLINEの通知音で目を覚まし、眠い目をこすりながら暗い部屋でスマホを眺めた。「藤原基央が結婚した」その一文とともに私を襲ったのは、身体を突き抜けるような衝撃と動揺としばしの動悸、なぜだかわからない胸の苦しみ…とても信じられなかった。いや、本来であれば結婚はおめでたいことであり、おめでとうと言ってあげなければならなかった。なのに、私を襲ったのは幸せの感情ではなかった。最低だと思った。私は、一瞬で眠ることが出来なくなった。その後、友人たちと明け方までそのことについて、何も解決することのないそれぞれの思いを語り合った。気が付くと夜が明け、私はそのままベッドから起き、在宅勤務を始めた。集中などできるはずがなかった。気が付くと藤原基央について考えていた。私の知っている藤原基央は…。
私を襲ったのは、紛れもなく虚無感と喪失感…あまりにも藤原基央の存在は私には大きすぎた。私の人生において、そのおよそ半分はバンプとともに生きてきた。生きがい、そして人生のすべてと言っても過言ではなかった。生きる希望もなく、大層な夢も忘れたただの凡人。そんな人間にも多大な影響を及ぼしたのが藤原基央だった。学生時代も常に心に存在し、寄り添ってくれていたのは紛れもなくバンプだった。つらい時も苦しい時も、常に彼らの曲を聴き、絶望の淵に立ちながらも踏ん張って生きてきた。私の仕事は、いわゆるブラックといわれる職場だった。毎日深夜にまで及ぶ残業、残業、残業、重責、あまりの苦しみに毎日毎日風呂場でこっそりと泣いた。ただただ、苦しく目の前には絶望が広がっていた。食欲はなくなり、眠ることさえもできなくなった。そして笑顔も消えた。そんな中でも絶対に離すまい、離してはならないと縋りついていたのはただひとつ、バンプの曲だけだった。目の前の食事も摂れない、眠ることさえもままならない、そんな中でも彼らの曲だけは離してはいけないと思った。泣きながら彼らの曲を聴く毎日、そんな状況が何年も続き、誰にも助けを求めることもできず、広がるのは暗い世界、簡単に死んでしまいたくなった。もう限界だった。だが、それでも負けまいと歯を食いしばってこられたのは、バンプが、藤原基央がいたおかげだった。もちろん、彼の人生に私は何も関係がない。私が困っていても直接手を差し伸べてくれることもない。それでも彼らの曲は自分の背中を押すのには十分すぎる力を持っていた。知らず知らずのうちに、藤原基央は私の芯となる部分に存在していた。彼がいたから頑張ってこられた。幸せを与えてもらっていた。仕事を頑張ってこられたこともバンプがいたからだった。私の人生にはずっと彼らが存在していて、彼らと共に生きてきたのだ。
私の中にいる藤原基央像は完璧で、私の目標であり人生のすべてだった。その中に勝手に作り上げた藤原は、結婚をするような人間ではなかった。いや、してほしくなかったのだと思う。彼の作る曲には夢や物語、そして絶望や孤独が詰まっている。その曲たちに自分を重ねてみている人が多いと思う。それがひとたび結婚という現実を突きつけられてしまうと、曲がすべてその大切な人に向けて歌っているように聞こえてきてしまう。いや、本人からしたら本当にそうだったのかもしれない、誰か大切な人に向けた唄だったのかもしれない。しかし、結婚を公表したことで、それが確定要素として加わってしまったのだ。大切な人へ向けた曲としてしか聞こえなくなってしまった。あの曲もあの曲も、そしてあの曲も…。なぜ結婚を公表したのか、私としては隠していてほしかった気持ちの方が大きかった。非常に勝手ながら夢を見させてほしかったのだ。誰か「ひとり」のために歌った歌だとしても、それを知らずに聴いていたかったのだと思う。そして何より彼ら「4人」の仲の良さが、いくつになっても一緒にいて楽しそうにしているメンバーを見ていたかったのだと思った。そこに寂しさがあったのだと知った。ずっとそうやって応援してきたリスナーの一人としては、そう感じてしまったのだった。ただ、素直におめでとうと言えない自分が一番嫌だった。最低だと思った。そして、ファン失格なのではないかと思った。
私の中の藤原基央は、孤独感、絶望感を歌うのがとても上手な人だった。私はそんな彼の孤独を歌う姿が大好きだった。勝手に彼の孤独の部分と自分の孤独の部分を重ね合わせていたのかもしれない。藤原基央はただ一人しか存在しない。だが、人それぞれ彼への感じ方も見方もまるで違う。自分にとっての「孤独」の中に彼がいる人、「背中を押してくれる」存在に彼がいる人、触れられたくない誰にも見せられない「傷」の中に彼が存在している人、そんな人それぞれの中に、各々の藤原基央がいて、きっとそれは例外なくその人にとっての唯一無二な存在として生きているのだと知った。それはきっと人の数だけ存在していて、決して同じ彼は存在していないように思う。私の中にいた彼は、私の核となる誰にも見せられないような脆くて寂しくて孤独感のあるそんな場所に存在していた。私の中の孤独を埋めてくれるような存在だった。私は寂しいと感じることがほとんどない。それは、きっと今まで寂しさの部分に存在していた私の中の藤原基央像が、そこにいたからだと知った。だから彼が結婚してしまって寂しく感じてしまったのだと知った。そして、その寂しさを埋めてくれていた彼が自分の中からいなくなってしまったこと、幸せになっている現実、自分は幸せではない現実、勝手に重ね、今まで自分の中にある孤独感を癒していたのだと思い知った。だから彼の結婚を現実として見ることが出来なかった。実に勝手でわがままでそんな自分が一番大嫌いで気持ち悪いと思った。もちろん、私は彼に対して恋をしていたわけではないが、私の人生に多大な影響を与えていたのは事実であり、認めざるを得なかった。それほどまでに自分の中に深く存在していた人物だった。
彼が幸せになったことで彼の中にある孤独感が消え去ってしまう可能性があることはすなわち、自分自身の孤独感を直視しなければいけないことに繋がってしまう。私にとって、彼の結婚が複雑で素直におめでとうと言えなかったのはきっとそこにあったのだと思う。自分の孤独を埋める場所にいた彼が、結婚をしたことによって、その孤独がなくなってしまうということは、自分自身の孤独感を埋める場所が空っぽになってしまったという事実に他ならなかった。勝手なまでの、このどこにも持って行き場のない彼に向けていた夢と理想。惨めなまでの現実から目を背けるために、夢を見て、夢を買っていたのだと知った。いつも彼に夢を見させてもらっていた。独身を貫くような孤高の天才のようなそんな理想を彼に向けてしまっていたように思う。彼も人間なのだ。私は彼に勝手に何を期待して、望んで、希望を持っていたのだろう。そんな自分の中に確固として存在している狂おしいまでの憧れ、羨望、理想像であった私の中の彼に、私は勝てなかった。その落差に落ち込み、悲しみ、寂しさが襲ってきたのだ。私の中の大切で、重要で誰にも触れられたくない心の「核」となる部分に藤原が存在していた事実。彼が独身であり続けることで、彼も「独り」という孤独と戦っているのだと、きっとそう思い込むことで、目を背けたくなるような孤独の中に、私の理想とすべき藤原基央像を入れ込むことで、その痛ましいほどの孤独を補っていたのだと思う。実に勝手で、悲しいほどの現実だった。
私は、長年、自分自身を許したいと思っていた。でもそれはなかなか根気のいる作業で、自分のことを許すどころか、自分をどんどん追いつめて苦しめていくばかりだった。なぜ私は藤原基央が結婚したことが受け入れられなかったのか、それは自分の幸せを認めてあげられなかったからに他ならなかった。彼の結婚を自分自身の中で受け入れること、すなわちそれは自分の幸せを、自分を許すことに繋がること、それが私にとっては苦しかったのだと知った。
でもそれをきっと許してあげることができたら、長年苦しんできた自分を解放してあげられることに繋がるのではないかと思う。彼の結婚を自分の中で受け入れられたとき、私の中の孤独と向き合え、自分自身を許してあげることに繋がるのだとそのとき初めて気付いたのだった。そう感じたとき、ふと肩の荷がおりたような気がした。そんな潜在的な部分に入り込み、「私」という自分自身さえも保つ位置に存在していた彼の存在の大きさに改めて気付いたとき、彼にありがとうという感情が自然と湧き出てきたような気がした。今まで自分自身の「芯」となるような「核」となる柔らかくて誰にも見せられないような部分にいてくれてどうもありがとう、と。もちろんそんなことは本人には何も関係がなく、実に勝手でエゴで、恥ずかしくて、私が彼の人生に影響を及ぼすようなことは一生ないが、確かに私の中にいた藤原基央という存在は、自分にとってかけがえのないものだったことに気が付いた。たとえそれが勝手に自分の中の孤独を埋める部分に存在していたとしても。彼の結婚を受け入れるということは、自分自身を認めてあげられることに繋がった。きっと彼の結婚を素直に祝福してあげられる人もいて、私のように素直におめでとうと言えない人もいると思う。それはきっと、その人その人の中にいる藤原基央像が違っているからなのだと思う。私のように孤独を埋めるような寂しさや孤独感や絶望感を感じるような弱い部分に彼が存在している人は、きっとショックを受けたり、心にぽっかりと穴が開いたように感じてしまっていたのかもしれない。逆に祝福してあげられる人は、自分の中できっと背中を押して傍で応援をしてくれるような位置に彼がいたのかもしれない。きっとそれぞれショックを受けている人たちもきちんとおめでとうと喜んであげたい気持ちは大きいと思うが、自分と重ねてしまっている部分が大きい人ほど、きっと少し祝福してあげるのに時間がかかってしまうのかもしれない。そんな自分自身と向き合えた時、きっと彼に対して心からおめでとうと言えるのかもしれない。私は、そのことを考え、自分と向き合ったときに初めて、自分を認めてあげられるような気がした。ただ、その事実を自分の中で理解したときに心がすっきりと軽くなったような気がした。自分が孤独だったこと、孤独を認めたくなかったこと、自分の幸せを見てあげることができなかったこと、それが彼の結婚発表によって浮き彫りとなった。きっと彼の結婚が無かったら、私はこんな感情が自分の中にあったことすら知らずに生き続けていたと思う。そしてそれに気付いたとき、分かったことがある。やっぱり私は藤原基央が好きだ、と。結婚をしていてもそれは何も変わらない。私が今まで見て来た藤原基央のことをやっぱり好きでいたい自分がいた。それは今までのような「孤独」を埋めるための「好き」ではないかもしれないが、私の小さい頃からの憧れで尊敬する唯一のかっこいい藤原基央であることに変わりはない。ずっと私のスーパーヒーローだ。
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