遡及的な物語:大文字の他者に形作られる主体、およびレンダリングとしての芸術
一 観者としての主体の三つの段階
映画、小説、漫画の物語を見ているとき、私たちは誰として見ているのだろうか?私は、岡真理の問い(戦闘場面を見ながら、私がずっと感じていたのは、一体これは、誰の視線、誰の目に映った戦場なのか、という疑問だった)は、主体を間違った位置に置いていると思う。問うべき問いは、これは誰の視線なのかではなく、誰のために作られた視線なのかである。
次のような場面を想像しよう。裕福な家庭の子供がいる。彼は何不自由ない生活を送り、欲しいものは何でも両親が買い与えてくれる。節約という概念は彼にとって存在せず、浪費が日常である。そんなある日、彼は映画館で壮絶な戦争映画を観る。映画の主人公たちは壮烈に犠牲になり、その犠牲は映画の中で国家の平和と富の前提として描かれている。映画が終わった後、この子供は両親に対して、今持っているすべてのものが容易に手に入るものではなく、大切にしなければならないと宣言し、映画の主人公のように国家の平和と富のために貢献しようと決意する。これは特別な場面ではなく、むしろよく見られるものである。あるいは、映画『Kick Ass』やアニメ『僕のヒーローアカデミア』の主人公のように、漫画やテレビの物語を見て何かの英雄になりたいと思ったり、「自分もあのような英雄になれるだろうか?」と自問したりするような場面である。
これらの場面では、特定の「誰の視線」は存在せず、特定の観る主体も存在しない。むしろ、提供された視線の空白が存在し、どんな主体でもその空白に埋め込まれることができる。重要なのは、主体がこの空白を埋める前と後で異なる状態を呈する可能性があることである。
ここで、一つの物語に対する「観る主体」を三つの段階に脱構築するべきだと考える。第一段階は原初の主体、第二段階は形作られる主体、第三段階は回帰の主体と呼ぶことができる。言い換えれば、「主体の観ること」を三つの段階に脱構築することができる:主体の原初、主体の形作り、主体の回帰である。第一段階では、主体はまだ「未開発」の状態であり、他の符号の中で「自分自身」を認識していない。第二段階では、主体は見た物語を通じて形作られる。物語の中のキャラクター(主人公であれ他のキャラクターであれ)は、ラカンの概念でいう大文字の他者として、観る主体に自分のアイデンティティを認識するための通路を提供する。大文字の他者によって形作られた後、物語が終わると、主体は第三段階の「目覚めた」人となり、洗礼を受けた新しい姿勢で日常生活に戻る。
二 物語のコンテクスト
主体が観るメカニズムを理解することができれば、この過程で無視できないもう一つのディメンションがある。それは物語そのもののコンテクストである。まず、岡真理が『プライベート・ライアン』での死への赴きをどのように描写しているかを見てみよう:
「ライアン青年とはある原理のメタファーなのである。それを大義と言ってもよい。人間がそのためなら、命を棄てて守ることもいとわないような大義、人間がそのために生き、そのために、死ぬような大義。それは、人間とは自らが信じる正義を主体的に選択すべきであるという原理である。大尉もまた、それを自らに課し、死んでゆくのである。/だが、そこには一つの否認がある。物語が否認するのは、戦争とは人が不条理な死を死ぬという<出来事>であること、主体的な選択が根源的に否定される体験であるという事実である。」39-40
ここで、「戦争とは人が不条理な死を死ぬという<出来事>」は、「信じる正義(死)を主体的に選択する」の中に隠されている。つまり、戦争の真のコンテクストが主体の個人的な体験の中に隠されているのである。主体がこのシーンを観るとき、主人公の壮烈な死に感動することがあり、これによって戦争という残酷で無意味な出来事が英雄的にレンダリングされる。そして、芸術的な遡及的に物語を作ることはこのようなコンテクストを隠す手法なのである。これは一種のレンダリングであり、事物に意味を与える手段である。
例えば、戦争について言えば、私たちはその当時に実際に起こった戦争を真に体験することはできない。ただ遡及的に起こった戦争を物語として叙述することで体験を可能にする。人がそのような映画を観るとき、共感を生むのは本当に自分がその主人公になることではなく、観る主体と主人公の間には常に距離があり、その距離こそが、物語を観た後に主体が本当に戦争を経験した人のようにトラウマを形成するのではなく、新しい安定した形で回帰できる理由なのである。このメカニズムがフロイトが説明した夢の構造と非常に似ていること、あるいは同じであることに気づくのは難しくない。重要なのは、夢から覚めるその瞬間である。その瞬間が夢の真の効果を証明する。もちろん、ホラー映画を見てトラウマを受ける人々は別の例である。彼らは物語に入り込んで形作られたのではなく、恐怖の要素に直接刺激されただけである。したがって、彼らは「恐怖を観る人」というより「恐怖を経験する人」と言える。
ジジェクが言ったように:「every history is a history of the present」。この言葉が示すのは、かつて起こった事実の必然的な状態ではなく、事実を遡及的に構築する物語としての「歴史」の本質的な構造である。本当に起こった事実が歴史の中に偶然組み込まれることがあっても、歴史そのものは物語であり、遡及的な物語である。
三 レンダリングの危険性
もちろん、すべてのレンダリングが批判されるべきだとは思わない。例えば、英雄の映画は一般の人々に他者を助ける情熱を引き起こすかもしれない。しかし、危険なのは、誰が物語の権力を握るかによって、大文字の他者を提供する権力を握ることになることである。私が生まれた中国では、毎年、共産党の軍隊にめぐる戦争を描いた映画やドラマが多く制作される。「抗日」であれ「抗米」であれ、共産党の軍隊が英雄として描かれている。これらの映画やドラマは中国人に非常に強い影響を与えており、教育の遅れた農村地域では、あまり教育を受けていない高齢者でも「抗日英雄」が「日本鬼子」(日本軍人に対して使う侮辱的な呼称)を打ち負かす勇敢な話を知っている。同様に、ヒトラーの御用監督レニ・リーフェンシュタールも同様の手法を用いて、ナチスドイツのために精巧な宣伝ドキュメンタリー映画『意志の勝利』を制作した。これは非常に恐ろしい手段であるが、効果的なレンダリング手段でもあります。この手段は、集団を個人の体験のレベルで物語を掌握する権力者に依存させ、事件そのものを反省しないようにさせるのに十分である。レンダリングの権力を握る者とその目的が、この手段がどこに運用されるかを決定する。そして、観者としての主体は、このレンダリングの中で自分の位置を認識することになるのである。