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明石市は110年前から「しみんが創るまち」だった。「時のまち」で深イイ歴史を辿る

本日10月13日は、世界の標準時が制定された日。
「時のまち」に暮らすわたしたち明石市民にとって、とても関係の深い日でもあります。

とはいえ、そもそも、なんで明石市が「時のまち」なん?
東経135度を通るまちって、日本中にいっぱいあるやん?
って思いませんか?

なので今日は、明石市の出版社ペンコムが(うちから出している『あかし本』を参照しながら)、なんで明石市が「時のまち」なん?をひもといていきます。

実はこの歴史をたどっていくと、「やるやん 先輩!」と、肩でも叩きたくなるような 深イイ話に辿り着きまして・・・

世界の標準時って?

では、早速。
本日10月13日に制定された、世界の標準時って何?から。
神戸新聞明石総局・編著『あかし本ー時のまちを創る 海のまちに生きる』(ペンコム刊)からひもといてみましょう。

1884(明治17)年に開かれた国際子午線会議で、イギリスのグリニッジ天文台を通る子午線を、世界中の経度と時刻の基準となる「本初子午線」とすることが決定。そこから経度が15度隔たるごとに1時間ずつ時差を持つ時刻を、世界各国が使用することになった。

『あかし本』(P79より)

科学技術が進み、鉄道が普及してくると「標準時」が必要になって来たわけですね。それまでは、多数の地方時が使われていたようです。
そこで、国際子午線会議が行われ、イギリスのグリニッジ天文台を通る子午線を、世界中の経度と時刻の基準となる「本初子午線」とすることが決定された。それが、1884年10月13日というわけです。

なぜ、同一の標準時が必要になってきたか、という歴史については、『時間の日本史』日本人はいかに「時」を創ってきたのか(小学館・刊)に詳しいので、ぜひお読みください。
われらが明石市立天文科学館の井上毅館長も執筆者のおひとりです!(第2章明治・大正期に推し進められた「時」の近代化)

日本の標準時って?

『時間の日本史』によると、”日本は、この会議にアジアで唯一参加した国で、決議に全面的に賛成した”とあります。
そして、日本でも2年後の1886年に東経135度を日本標準時子午線に制定し、1888年1月1日午前0時0分に日本標準時の使用が始まりました。

この決議に基づき、日本では2年後の1886(明治19)年7月12日、勅令第51号「本初子午線経度計算方及標準時ノ件」により、東経135度を日本標準時子午線に制定。1888(明治21)年1月1日午前0時0分、日本標準時の使用が始まった。

『あかし本』(P79より)
勅令第 51 号「本初子午線経度計算方 及標準時ノ件」(国立公文書館所蔵)

子午線に教育的価値を見いだした小学校の校長先生たち

さて、ここからが明石の先人のすごいところです!
「うわ!東経135度って明石を通ってるやん」
って、言ったか、言わなかったか、は定かではありませんが(たぶん言ったと思う)、明石郡小学校長会の先生方がこれに「教育的価値」を見いだし、子午線上に御影石の石柱「大日本中央標準時子午線通過地識標」を建てました。
これが日本で最初の子午線標識とされ、ゆえに、明石は「時のまち」として今に至っているのです。

以下、『あかし本』の記述から。

それに教育的価値を見いだしたのが、明石市立明石小学校の第7代、高木熊太郎校長ら明石郡小学校長会のメンバーだった。1910(明治43)年、教員たちの寄付で、現在の神戸地裁明石支部(天文町2)前に御影石の石柱を建てた。刻まれた文字は「大日本中央標準時子午線通過地識標」。日本で最初の子午線標識とされる。

『あかし本』(P27より)
大日本中央標準時子午線通過地識標。日本で最初の子午線標識とされる

経費は「教員月俸百分の一半を醵出し」

【明石郡小学校長会の先生方がこれに「教育的価値」を見いだし、明石郡は子午線上に御影石の石柱「大日本中央標準時子午線通過地識標」を建て、これが日本で最初の子午線標識とされ、ゆえに、明石は「時のまち」として今に至っている】

と、これで話は終わらないのです。
『あかし本』では、先に紹介したように「教員たちの寄付」とさらっと触れていますが、この記述の根拠となる資料があります。
『明石市史(明治前期篇)』です。

明石市史(明治前期篇)より

小学校長会で諮ったところ、満場一致で賛成となり、実行委員会を作って計画し、発起人数名が中心になって推進していったと記されており、標柱を設置するにあたって、正確な位置に建てるために陸軍に測量を依頼したとあります。

さぞかし、経費がかかったことでしょう。
その経費は、「教員月俸百分の一半を醵出し」まかなったのでした。
この資料の最後はこう締めくくられています。

「斯學のため永久に貢献するのみならず、一般旅者をして標準時を意識せしめ時の観念の涵養に資すべきこと幾何なるかを知らざるなり」

涵養(かんよう)とは、自然に水がしみこむように、徐々に教え養うこと。
まさに!ですね。

筆者がこの資料と出合ったのは2011年。
100年前の先人にただただ感謝し、教育とはこういうものだなあと感動したものです。

「時のまち」を引き継ぐ
先人達が築いた行いも、継承する人がいなければやがて廃れていきます。
明石市では、6月10日「時の記念日」にあわせ、目に見えない「時」を、わがまちの特徴と捉えてきました。
1993年にはじまった「時のウイーク」イベントは、市民の手作りで、継承され続けていることが魅力です。
1995年の阪神・淡路大震災では、被災し時を刻むことができなくなった天文科学館に大勢の市民が集い、レーザー光線で見えない子午線を東経135度上に描き復興を誓い合いました。

子午線上に凜と建つ明石市立天文科学館には、多くの子どもたちが集い、やがておとなになって、新しい家族と訪れる、そんな心の支えとなっています。

「大日本中央標準時子午線通過地識標」の側面には、こう刻まれています。

明治四十三年十月三十日 兵庫県明石郡小学校教員一同

このまちは、ずーっと昔から、「しみんが創るまち」だったのです。


『あかし本』 時のまちを創る 海のまちに生きる

兵庫県明石市はなぜ「時のまち」「魚のまち」として進化し続けるのか。新聞記者が掘り起こした名も無き人々の挑戦の数々が読む人の魂を揺さぶる。