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【ストレスマネジメントと現代社会についての私見】


1. はじめに
私は、普段電車移動をするとき、比較的目を閉じていることが多いです。それは(自分にとって)不快と思うことをできる限り見ないようにするためです。人間の五感の中で8割を越える(資料によっては90%というものもある)情報は視覚、いわゆる目から入ると言われています。その情報は自分にプラスになるものもあれば、そうでないものもあると思います。プラスの情報を得ることで仕事や勉強、研究に対しての何かヒントに出会うこともあると思います。けれど、私は私自身に被るストレスを回避するためにプラスの情報も破棄してでもマイナスの情報を遮断するために目を閉じるようにしています。
しかし、歩いているときは目を閉じることができません。結果マイナスの情報、ストレスになり得る不快な光景を目にする機会が増えることになります。例えば、勝手気ままな自転車走行を目撃することです。老若男女関わらず、無灯火での走行、右側走行、右折時の最短経路選択、並列走行、スマホを扱いながらの走行などです。運転する人たちは「危険ではない」と思った行動なのかもしれないけれど、そのような行動を目撃すると腹が立つのです。彼らは、それらの行動が「危険」だと思っていないのでしょうか。交通法規を知らないのでしょうか。知った上で「自分一人ぐらいなら」と思って行動しているのでしょうか。そんなことを考え、心が乱れてしまいます。そして、その感情をコントロールすることでストレスがかかってしまうのです。

2. 今日のテーマ
今日は日々私がどのようにストレスと向き合い、対処しているのか、そして、ストレスになり得る要因に溢れている社会に対しての思いの2つのテーマについて私見を述べたいと思います。

3. ストレスへの対処の仕方
私はストレスをできる限り軽減する手段として、一つは前述したように電車の中では目を閉じるようにしています。そしてもう一つは、できる限り家から出ずに、外出を最小限にするようにもしています。人と会わないこと、人を見ないことが心の安寧になり、ストレスを回避することになるからです。これは、ある意味悲しく、寂しいことだとも思います。人と出会うことによって生じるプラスの化学反応が楽しいものであることは理解しています。しかし、私自身を取り巻く状況からの過度なストレスに身体が参ってしまうことも事実なのです。ストレスが増えてしまうと体調が悪くなり、日常生活もままならなくなってしまう発作が出てしまうこともあります。メニエルを抱えており、回転性めまいが生じると何時間も動くことができなくなります。また急性胃炎の発作がおきることもあり、数十分痛みに苦しみ、大量の冷たい汗にまみれることもあります。そんなストレス性の発作から自身の体調を管理するために、ストレスを回避することは必須事項となっています。そのため、できる限り外出を控えています。
それでも外出しなければならないことはあり、心が乱されるような場面に遭遇してしまうことは多々あります。そういうときは、三つ目の回避方法となりますが、それは、「心が乱されないように“無関心でいる”ようにすること」です。見えていても見ないことにする。何も感じないようにする。そうすることで心を乱されることは少なくなります。もちろん、それで全てのストレスを回避できればいいのですが、そうはなりません。まだまだ修行が足りないのですかね。
このようにストレスへの対処は個人に委ねられています。しかし、個人で対応することには限界があると思います。共感できる仲間同士で情報を共有し、より良い対応方法を考えていくこともできると思います。けれど、抜本的なストレスの原因を取り除くことはとても難しいと思います。自分を変えること、自己啓発において解決できることには限界があり、ストレスの原因を減らしていくには、ストレスを抱える人たちの外側にいる人たちと関わっていかなければならないと思います。

4. ストレスになる社会に対しての思い
私のようにストレスに敏感な性質を持った人たちは個々にストレスへの対処方法を模索していると思います。十数年前と比べて心療内科のクリニックも増えてきたと思いますし、YouTubeでも心理カウンセラーの方々が様々な動画で心の持ちようについての解説動画を公開されています。それほど心が病んでいる人が増えているのだと思います。私もそんな一人で、かなり長い間心の病で苦しんでおり、今も対応すべき情報を集めたりしています。
そんな中、ふと考えることがありました。「なぜ心を病んだ人ばかりが“対処”しなければならないのか」と。私が自衛として行っているストレスを回避する方法も、カウンセリング動画で語られている内容も、「心を病んだ人たちがなんとか生きていくために必死で努力すること」を説いています。そして、ストレスを与える要因や要因となる人には正面から向き合わず、無関心でいることを暗に奨めています。無関心になることは迅速に心のスイッチを切り替えることができ、自分を守るには最善の方法の一つだと思います。けれど、心を病んだ人たちばかりが対処方法を学ぶこと、対処療法ばかり続けることが問題の解決になるのが疑問です。もちろん私は対処法を学び、行うことを否定するわけではありません。その努力はとても大切なことです。それを学ぶことで私もストレスマネジメントが少しずつできてきていると思います。そして、心を病んでいる人への対応と同時に、心を病む人が生まれる社会に対しての対応も必要なんじゃないかと思い始めました。
巷に溢れている、「言ったもの勝ち、やったもの勝ち」や「勝ち組」という表現も、「マウントを取る」ということも、要するにエゴを押し通し、自分のやっていることが正しいと主張し続けることが「正義=勝ち」となっているように思います。言い換えれば、声が大きい人が言っていることが「正義」となっているということです。そして、その価値観に追従することができない人たちを「負け組」や「隠キャ」とレッテルをつける。もしくは、その価値観に疑問を持っている人たちが我慢をする構図になっているのだと思います。我慢を強いられるグループは自身を大きく見せることなく、慎ましやかに、ストレスを享受しながら暮らす社会。これって「正直者がバカを見る」社会になっているように思えます。
現代社会は、自分や家族、仲間には関心を持つが、それ以外に対しては無関心であるように思います。勝手気ままな自転車走行をする人たちも、電車で席を譲らなかったり、少し隣とのスペースを考えれば状況が変わったりすることに気がつかない人たちも、自分と仲間以外に無関心なのだと思います。しかし、ストレスの多い現代社会において、彼らは無関心になることで、社会との関わりのバランスを保っているのかもしれません。

5. さいごに
私は“声が大きい人が言っていることが「正義」となっている社会”に疑問を持ってはいます。しかし、面と向かって発言することができる強さや自信を持っていないので、ずっと人の顔色を見て、空気を読んで生きてきました。まさしく「ストレスを抱える生き方」をしてきたわけです。私自身が長い物には巻かれて、エゴを通すような生き方をすればストレスもなくなるだろうと言われるかもしれません。けれど、それはできなかったし、これからもしようとは思いません。自分の立ち位置が理不尽だと思い、ストレスを抱え、それに対処しながら生活していくことは基本的には変わらないと思います。だけど、このような場で少し発言することで、共感してもらえればうれしく思います。

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