翻訳の楽しみと悔しさ
前回の記事ではチベット人シンガー、タシ・プンツォクの曲を翻訳したものを掲載しました。
そこで少し感じたことがあったので、書いてみます。
前回の記事はこちら↓
この歌詞を訳す中で、翻訳の難しさを痛感した。
「アク・トンパ」とか、一連の事柄について書いてあるような物語ならすごく訳しやすい。
ただ今回は、様々な背景を想像して意味を読み解く必要があったので、非チベット人である私にはとても難しいことだった。
「文脈を読む」ことすらヒントが少なすぎて、至難の技ではないか。
チベットにはたくさんの作家や歌手がいて、豊かな文化がある。
それなのに、私は一生それらの文化をもれなく味わうことはできないのか?
そんなのいやだ。
翻訳しているとき、意味がわかってくるのが楽しい一方で、わかりたいのにわかりきれない悔しさがある。
もちろん、作者の意図が全部わかることなんてありえない。
ただ、そこに手の届かない何かがあるのが、なんだか悔しい。
そう感じていたとき読んでいた本の中に、こんな一節があった。
「良い翻訳とは、現地語を自国語の形式に押し込めることでなく、元の一貫性を再現するために自国語を変形させることだ。」
引用元:松村 圭一郎, 中川 理, 石井 美保 編(2019)『文化人類学の思考法』(p.69)
この言葉はタラル・アサドという文化人類学者が話した言葉らしいが、はっとさせられた。
私は言わずもがな、チベット語の能力がまだまだ足りない。
同時に、日本語を自由自在に操る力も不足しているではないか。
さらに考えを飛躍させてみる。
翻訳をするには、たくさんの要素がある。
翻訳対象のチベット語作品、作者の意図、チベットの文化的背景、
私のチベット語やチベット文化の理解度、作者の意図を読む力、私の持つ日本語の語彙、日本の文化的背景、などなど。
いろいろなものが作用しあって翻訳が生み出される。
ならば、訳者の人生経験すべてが翻訳につながっているのではないか。
日本語話者向けに訳すならきっとこの言葉がわかりやすい、と言葉を選択するには、訳者個人のバックグラウンドが大きく反映されているのでは…
と、、、
私の日本でのなんてことない生活も、チベット語翻訳を通じてチベットの文化を紹介するために、必要な感覚を養っているんだ。
と特殊な関連づけ(?)をして、日々憂うつな会社員生活を送る自分をなぐさめたり。
チベット語と母国語を同じ地平に置いて、もっと日本文学を読もう。
という気にさせてみたり。
思ったのでした。
飛躍したわー
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