10.職場復帰
3か月の入院で学んだことは、抗酒剤、通院、自助グループの参加が断酒の3本柱だということであった。シアナマイドやノックビンなどの抗酒剤は大阪の病院では入院中には患者の自主性に任せていて飲んでいなかったのだが、大阪の病院で紹介された横浜の病院では抗酒剤の服用が義務付けられていた。初めてのシアナマイド。薬瓶にははっきりと劇薬と書いてある。これを服用しなければ通院できないらしい。
通院は、アルコールを含んだ依存性薬物の治療では権威のある病院で、自宅から遠く通院するのに片道1時間半ほどかかる。横浜市営地下鉄で上大岡まで行ってそこからバスである。しかしながら関東のアルコール依存症治療の外来受診をしている病院はそこしか知らず、仕方なく通院を続けていた。大雪が降った時も律儀に通院した。
病院を退院した年末、会社の忘年会があり、皆がビールを飲んで焼肉を食べている中、私だけはウーロン茶ですましていたのだが、そのストレスが溜まっていたのか、年末年始の休暇中飲酒してしまい、ブラックアウトのまま4日を迎えた。私は罪の意識に苛まれてシアナマイドを一気飲みしたのだが、それからが地獄の時間で、病院に這っていくまではこらえていた嘔吐を病院につくや否や何度も繰り返し、解毒してもらって、ようやく自宅に戻ることができた。その時は本気で死ぬかもしれないと思ったものである。
そして自助グループの参加は、上司の離職に伴う仕事の引き継ぎに加えて、部下も2人いたものの、新入社員同然の彼らは言われたことしか出来ない。仕事の大半を自分一人でやらなければならないような入院前と全く変わっていない状況が待ち構えており、深夜までの残業は当たり前だった。断酒会やAAの参加の間は会社を抜け出してくれるかも知れないが、そんなことでは心の平静は絶望的であった。ただ、自助グループ参加に関しては、断酒会にしてもAAにしても大阪の病院に入院していたときは同じ大阪人でもあり、打ち解けていたのだが、その効果については内心では懐疑的であり、はっきり言えば期待はしていなかった。
当時抱えていた仕事は、大手デベロッパーのマンション建設にかかわる開発許可の取得と、宅地造成の設計である。名目だけの部長はいたが、開発行為の許認可に関しては素人である。事実上、設計のセクションのトップに立った私はその大部分をしなければならない。
加えて、3次元CADで建築の新規事業開拓の為のプレゼンテーション用パース(完成予想図)の作成や宅地造成のための区画割りのシミュレーション、下請に発注していた公共事業に伴う建物の移転補償の算定のチェックや公共下水道整備のための図面作りの仕事をするなど、めぐるしい日々を送っていた。
その上に12月になると測量の手伝いで1週間の沖縄出張をしなければならず、帰ってきたら東京湾のリアルタイムキネマティックGPSで、自分の仕事すら碌にできない。クライアントからは突き上げられ、ほかの部署からは手伝いを頼まれる。週に一度の工程会議の際、社長の奥さんの総務部長が強く言ったものである。
「出来ないことはちゃんと出来ませんって言いなさい。何もかも引きうけてしまうのは無理よ。」
マンション建設にかかわる開発許可は何とか契約期間内に取得することができたが、問題は宅地造成の設計である。私が勤めていた川崎市では500平米以上の土地の区画形質の変更は開発事業に当たるのである。その物件の場合は小規模な建売住宅の宅地造成だったので設計自体はそれほど難しい仕事ではなかった。しかし、開発行為をするためには周辺住民への説明が必要になってくる。問題はそこで起きた。地権者への説明ではスムーズに事が運んだのだが、崖下の賃貸マンションに住んでいる住人が曲者だった。
近隣説明の場合は至って下手に出て何とか納得してもらうのが定石だ。しかし、その中の数人の奥さんの挑発に乗ってしまい、けんか腰の交渉になった。また、区役所の開発担当者にも苦情の電話を入れていたらしく、役所からはヒステリックな電話はかかってくるわ、マンション住民全員立会いの現地説明会でも個人攻撃される。唯一の逃げ場はアルコールだけだった。酔っ払えば一時的にしてもその場は逃げられる。こうして私の再飲酒が始まった。一度「現実逃避」の回路が始動するともはや連続飲酒まで時間の問題である。
会社の中での唯一の見方は総務部長だった。遠くの病院に行くよりは近所でアルコール依存症の診療もやっているクリニックを探してくれ、私に勧めてくれた。何度か診察に通っていたのだが、私のアルコールの問題はクリニックの診察ではどうしようもなくなっていた。総務部長も一緒の診察の再、私は再び精神病院に戻ることを決定した。