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45.テレビ室室長

高校に入ってから試験前にならないと自習と言うものをしなくなった私は、愛読誌の「フールズメイト」以外にも乱読に近い読書に耽っていた。しかし、乱読と言っても何でもいいわけではない。やはりそれなりに拘りがあって、「フールズメイト」で紹介されていた本や、倉橋由美子の小説ばかり読んでいた。しかし、それらの本のほとんどは函館では手に入らない。長期の休みの時に実家に帰省した際、大阪や京都で買ってきた本ばかりである。それらの本の数は限られていたため、膨大な暇な時間が出来た。そういうときに入り浸っていたのがテレビ室である。
当時の寮には唯一の娯楽室であるテレビ室が各学年に一ヶ所設けられていた。1年生の時はそうでもなかったのだが、2年生、3年生になると夜はほとんどテレビ室で過していた。テレビ室で読書していたこともある。特に2年生の時は、同室のNと上手くいってなかったので自室にいるのが苦痛だった。
テレビ室での思い出のエピソードは、まずは1985年の阪神優勝である。1番・真弓、3番・バース、4番・掛布、5番・岡田らの強力打線(第2次ダイナマイト打線)が活躍し、特に4月17日の対巨人戦(甲子園球場)ではバース、掛布、岡田が槙原寛巳からバックスクリーン3連発はお見事だった。
我が母校には関西出身者も結構いたので、優勝が決まった日は大騒ぎだった。それで、テレビ室は阪神優勝のニュース一色になり、消灯後も私を含めた数人がテレビ室に潜り込んで、ニュースの続きを見ようとしていた。もう、興奮して勉強も手につかず、眠れない。テレビ室のカーペットでテレビを囲んで外に光が漏れないようにしていたのだが、寮の教諭の海老原先生に見つかってお叱りを受けた。
もう一つの思い出は、「ライブエイド」だ。「ライブエイド(LIVE AID)」は「1億人の飢餓を救う」というスローガンの下、「アフリカ難民救済」を目的として、1985年7月13日に行われた、20世紀最大の「チャリティー・コンサート」であり、「1980年代のウッドストック」とも、一部でいわれていたが、その規模をはるかに超越したものとなった野外ライブである。
イギリス、ロンドン郊外ウェンブリー・スタジアムとアメリカ合衆国、フィラデルフィア、JFKスタジアムの2つの会場のライブ映像は計84ケ国に衛星同時生中継され、録画放映分を含めると、140~150ヶ国の人々が観たといわれている。
後年、偽善だとか売名行為だとか、「ウィ・アー・ザ・ワールド(We Are The World)」は虫唾が走ると色々と言われることになる「ライブエイド」だが、当時は滅多にテレビでは見れないアーティストのライブが観られることもあって、私はテレビ室に居続けて「ライブエイド」を観続けた。
加えて、中曽根康弘内閣が実施した、国鉄分割民営化に伴う騒動も思い出させる。1985(昭和60)年11月29日の東京、埼玉、千葉、神奈川、京都、大阪、岡山、広島の8都府県下33ヶ所で国電区間の通信ケーブルが切断され、CTCなどが機能を停止し、首都圏の国電すべてが始発から運転不能になった。またMARSの機能も一時ストップして指定席券の販売が不可能になった。一方、午前6時45分ごろ千葉鉄道管理局で最も西にある浅草橋駅では、ヘルメット、火炎瓶、鉄パイプなどで武装した過激派約100人が駅のシャッターをこじ開けて進入し、券売機などを破壊した後、持ってきた灯油などを駅に撒いて放火し、これにより駅は全焼した。こうしたニュースも当時の寮のテレビ室で同時代体験した。これも80年代の思い出だ。
1980年代、特に1989年は世界が激動した時代(その集大成が東欧の民主化であり、ベルリンの壁崩壊に至るのだが・・・)で、それを生で体験できたことは、自室に閉じこもって勉強するよりもその後の人生を豊かなものにしている気がしないでもない。こうして高校時代、勉強しないでテレビばっかり観ていたので、いつの間にか私は「テレビ室の室長」と呼ばれることになった。

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