8.病気発症
飲酒行動が異常をきたしてきたのは30歳の夏頃からだった。それまではいくら仕事が忙しいと言っても自分が好きで選んだ設計の仕事だったので、仕事の疲れや不眠はあったものの、常識的な社会生活を送ることはできていた。しかしながら、この頃から設計の仕事は激減し、全くの素人にも関わらず補償コンサルタントの仕事を一人で任されるようになった。これが原因でまずは鬱病になった。
補償コンサルタントとは不動産に関するコンサルタントのひとつであり、日本国憲法第29条第3項の「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」という条項を根拠とする。これを法制化したものが土地収用法であるが、ほとんどの場合任委買収に依る。しかしながら当然税金を投入するため、厳密な公共事業にあたり土地取得と建物移転などの損失補償額を算定する「公共用地の取得に伴う損失補償基準」があり、それに基づく単価表もあって、民間の事業の損失補償と違って答えは一つである。多くても少なくてもいけない。土地調査、土地評価、物件、機械工作物、営業補償・特殊補償、事業損失、補償関連、総合補償の8つの登録部門に分かれており、私が任されたのはそのうち物件、営業補償、事業損失であった。
公共事業に関する仕事なので発注は役所であり、業務に着手するときにはメンバー表を提出して複数で仕事を行うことになっていたのだが、私以外のメンバーは全員ダミーであった。そのため基本的に4人くらいで行う仕事を私一人に押しつけられる形になり、慣れない仕事ということもあってミスを連発し、その結果、役人から厳しく叱責されることが毎日のようになった。そうした背景もあり、私は次第にその仕事のストレスと責任感の重圧から逃れるたびに毎日浴びるように酒を飲み、アルコールというドラッグに溺れるようになっていった。また、30歳を越えるとナイトクラブで踊ることもなくなり、アルコールだけがつかの間現実を忘れさせてくれる道具になった。
アルコールに対する耐性も次第に形成されてくると、それに伴って酒量も一気に増えていった。毎日、仕事帰りに焼酎の一升パックを買って帰っては、一日に半分から、多いときには一本を開けるペースで飲み続けた。休日になると朝から飲むようになり、飲んでは眠り、目が覚めたらまた飲むという習慣ができた。アルコールが切れてくると落ち着かなくなり、まだストックが半分以上残っているにもかかわらず、いくら飲んでもまだ酒が残っているという安心感がほしかったためにさらに買い足した。しかもいつもお酒を買う酒屋に買いに行くと不審がられる。それからは自宅の向えにある東急ストアーに買いに行くようになった。レジのオバちゃんは顔まで覚えてはいまい。
そうした日々が続くと、そのうち平日に仕事に行かなければならないにもかかわらず朝から飲まないとつらい仕事をこなす気力が出なくなり、仕事中でも隙を見ては酒を飲む機会を探すようになっていった。自分なりにアルコールの問題が大きくなっていることは分かっていたのだが、既に手遅れの状態で、いつの間にか道具(手段)であったに過ぎないアルコールが目的に代わっていった。
そのうちアルコールの離脱状態が顕われるようになり、不眠・発汗・下痢・手の震えが次第に酷くなり、夕方になると必ず毎日のように吐き気がして、会社のトイレで嘔吐することも頻繁になった。特に手の震えはコンピュータのタイピングをおぼつかなくさせ、下痢は外出した際などに必ずトイレの場所を確認しないと昼食も取れなくさせていた。そして常に落ち着きをなくし、仕事の能率も日を追って落ちていき、体が鉛のように重くなって、会社を休まざるをえない日が度重なるようになった。
また、おそらく幻覚だったのだろうがゴキブリの大群がシンクを走り回っている光景を見たり、行った覚えのない焼肉屋や寿司屋のレシートが財布から頻繁に出てきたり、トイレの鏡を粉々に叩き割っていたり、タバコを吸いながら酔いつぶれて寝てしまい、ボヤ騒ぎを起こすこともあった。しかしそれらは全く記憶にない。いわゆるブラックアウトだ。
会社では毎日のように朝から酒臭いと注意を受けていたのだが、問題飲酒行動は辞められなかった。クライアント(役所)との打ち合わせの際も酒臭い息をさせていたので上司から注意されただけでなく先方からも指摘され、仕事から外されることになった。そして31歳の時、通院していた内科から精神科に転院するようになり、初めてアルコール依存症と診断され、断酒を勧められた。