中学時代の昼休み
中学時代、昼休みに音楽室に行って好きな音楽を聴くことが一次期、流行ったことがある。たいていはレコードをカセットテープにダビングして持っていくのであるが、その中でも思い出に残っている音楽を紹介したい。
まずは、MFSB の「K-Jee」とTrammpsの「Disco Inferno」。
小学生のころ、ちょうど1977年。私と姉は観に行く映画で戦っていた。私は同時期に公開された「スターウォーズ」の第1作目を見に行きたかったのだが、姉は「サタデー・ナイト・フィーバー」を観に行くと言って譲らなかった。まだ小学生だったので、2人とも子供だけでそれぞれ観に行くということが出来なくて、父親同伴となったが、どちらかを観に行くことを決めなければならず、私と姉はじゃんけんで勝負を決した。結局は私が勝って「スターウォーズ」を観に行ったのだが、姉は諦めきらず、「サタデー・ナイト・フィーバー」のサントラ盤を買ってきた。音楽だけでも当時のブームに乗りたかったのだろう。私も聴いてみると、
「あ、、、なかなか乗りが良くて、ええやん」
といった感じだった。姉はこれをきっかけに一時、ビージーズやアース・ウィンド・アンド・ファイアーにはまる。
映画「サタデー・ナイト・フィーバー」は、土曜日の夜にディスコに集まる若者たちを取材した雑誌の風俗記事を題材にして、1970年代のアメリカ社会を背景に、「行き場のない青春のエネルギー」をディスコで踊ることで晴らす惰性の生活を送っていたジョン・トラボルタ演ずる青年トニーが、ディスコで出会った女ステファニーの生き方に心を開かれ、新しい生活へ目覚めて大人へ脱皮していくさまが描かれている。また、裕福な住人も多い華やかな都会的なマンハッタンと、ブルックリン橋を渡ったらすぐの位置にある、労働者の街であるブルックリンとが対比して描かれており、単なる娯楽映画ではなく当時のアメリカの格差社会を風刺した映画でもある。この映画の「トラボルタ」の風貌や決めポーズ、映画に使われたディスコ・ミュージックが世界的に人気になり、ディスコ文化を取り巻くファッションやサブカルチャーといった世界の若者文化に大きな影響を与えた。
「サタデー・ナイト・フィーバー」が日本公開されて大ヒットしたことで新宿、渋谷、六本木、池袋などの繁華街に多数のディスコが開業し、世間の偏見による不良のたまり場というディスコのイメージがやや変化し、ディスコは大衆化した。当時の日本のディスコブームは凄まじく、日本いたるところにディスコが出現し、小学生のころ私が住んでいた大阪の大東市の最寄駅の野崎の駅前のパチンコ屋の2階にもディスコが出来ていたし、叔母に連れて行ってもらった南紀白浜の温泉ホテルの最上階もディスコになっていた。
MFSB の「K-Jee」とTrammpsの「Disco Inferno」は、そんな映画「サタデー・ナイト・フィーバー」のサントラ盤から録音したものである。MFSB の「K-Jee」をかけたとき、当時の音楽の先生も肩を揺らしてノッていたのが懐かしい。
MFSB は71年に結成され、85年に解散した、ペンシルベニア州フィラデルフィアにあるシグマ・サウンド・スタジオで演奏していた多数のスタジオ・ミュージシャンからなるオーケストラ形態のバンドである。中心メンバーにはアール・ヤングやノーマン・ハリスらで、代表曲であるTSOP(ザ・サウンド・オブ・フィラデルフィア)は、アメリカの人気TV番組「ソウル・トレイン」のテーマ曲に採用され、74年に大ヒットとなった。サルソウル・オーケストラやリッチー・ファミリーのメンバーも、MFSBのメンバーと重複している部分があった。後年、ハウスにはまることになる私はMFSBが好きになり、特に、1973年の「Love Is the Message」はラリー・レヴァンも大好きで、MFSBの最高傑作だと思う。個人的には1987年のDanny Krivitのエディット・バージョンが好きだ。
The Trammps は、MFSBの中心メンバーであった、ドラマーのアール・ヤングによって結成された、ヴォーカル&インストゥルメンタル・グループで、後のハウス・ビートにもつながるアールの均等ながら弾むようなリズムを軸に、華麗なるストリングを施したアレンジ、リード・ヴォーカルのジミー・エリスの絡みつくようなテナー・ヴォイスがあわさって、至極のダンス~ディスコ・ミュージックが形成されるバンドである。「Trammps Disco Theme」、「Disco Inferno」といったディスコ・ブームに目配せしたナンバーでも、底流に流れるのは純度の高いフィリー・ソウルである意味、70年代フィラデルフィア・サウンドを体現したグループといえる。
ちなみに、MFSB の「K-Jee」は、1996年にサトシ・トミイエによってリコンストタクトされ、クラブヒットとなった。
次に、エマーソン・レイク・アンド・パーマー(ELP)の「展覧会の絵」。
イギリスにおいて1971年11月に発売されたライブ・アルバムで、原曲は、19世紀のロシアの作曲家モデスト・ムソルグスキーが作曲した同名のピアノ組曲であるが、原曲以外にもラヴェル等によるオーケストラ・アレンジがあり、ELPによる本作はラヴェル版の編曲を元にしており、全パートではなく抜粋、それにオリジナル曲を追加した構成になっている。また、原曲のテーマに合わせた「死と生」に関する歌詞をつけて歌っている。
当初、このライブ・アルバムは発売が未定のままだったが、ELPの人気が高まるに連れて需要が高まり、2枚組の海賊盤(展覧会の絵を含むライブ)が出回る様になってしまったため、事態を憂慮したELPサイドは10月になって海賊盤を市場から回収し、11月に、展覧会の絵+アンコールのナット・ロッカー(チャイコフスキーの『くるみ割り人形』の一曲である「行進曲」をロック調にアレンジしたもの。実はB.Bumble & The Stingersが1962年に出したNut Rockerのカバー)という構成の1枚組アルバムとしてリリースした。
中学生の一次期、クラシックのロックアレンジや、ロックとクラシックの融合みたいなものに凝っていた時期があり、ディープ・パープルの「ディープ・パープル・アンド・ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ」も好きだった。これは、ジョン・ロードの楽曲「グループとオーケストラのための協奏曲」の初演を録音したライブ・アルバムで、演奏はディープ・パープルとロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団による。当日はこの曲以外も演奏されており、後にそれらも追加したものが発売された。この楽曲はBBCとロードの共同企画により1969年に作曲、演奏された。イアン・ギランとロジャー・グローヴァーが加入して初のアルバムであり、ディープ・パープルとしても初のライブ・アルバムにもなった。演奏は1969年9月24日にロイヤル・アルバート・ホールで行われた。観客を前にしたオーケストラとバンドの合同演奏は歴史上初めてと言われている。
中学2年ころになると、パンク&ニューウェーヴやサブカルチャーにも目覚めるようになり、音楽室でかける音楽にも変化が現れた。その代表がゲルニカとスターリン。
ゲルニカは、1981年に結成された戸川純、上野耕路、太田螢一の3人による音楽ユニットで、デビューアルバム「改造への躍動」のプロデュースは細野晴臣が担当している。戸川純がハルメンズのライブに参加したことで上野耕路と戸川が意気投合しコンセプトを構築、太田螢一が合流し、ゲルニカが結成される。当初、未来派の騒音楽器から取ってイントナルモーリと名乗っていたが、後、ゲルニカへと変更された。私は何かのきっかけで「改造への躍動」を買って、ゲルニカの独特な世界観に魅せられていた。
スターリンは、それまでジャズを聴いていた私を一気にパンクへ走らせたバンドである。ヴォーカルの遠藤ミチロウを中心に1979年に結成されたバンド、「自閉体」を母体として1980年結成。同年9月5日にファーストシングル「電動こけし/肉」をインディーズレーベルからリリース。その後1982年にアルバム「STOP JAP」で徳間音楽工業よりメジャーデビューするが、3枚のアルバムをリリースした後に1985年解散している。同時期にデビューしたじゃがたら、INUなどと並んで日本のパンク・ハードコアシーンで活動していた。ラモーンズ直系の8ビートにG.B.H.のような攻撃的なハードコア・サウンドを組み合わせた曲調と、言葉遊びを織り交ぜた皮肉を込めた表現の歌詞が特徴だった。ライブ会場では同時期に対バンなどをしていたじゃがたらの影響を受け、ボーカルの遠藤が鳩の死骸や豚の頭・臓物を客席に投げつけ、爆竹や花火を投げ込み、全裸でステージから放尿するといった過激なパフォーマンスで話題性を呼んだ。東京のライブハウス「屋根裏」を破壊し出入り禁止になったことや、とある高校の文化祭でゲリラ的にライブを行った時に遠藤が全裸になり逮捕された事もある。私が買った初めてのスターリンのレコードは「GO GO スターリン」で、タイトル曲の「GO GO スターリン」やカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの共著による共産党宣言の一説を歌詞にした「先天性労働者」には衝撃を受けた。