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29.現代文化論

東野芳明先生の現代文化論は、芸術学科の専門科目で、通常は芸術学科の学生だけが受講できる授業だったが、2コマの授業のうち、前半がゲストの講演、後半はゲストと東野先生のトークという内容で、私は毎回のゲストに興味があったので、予備校の人気講師の授業に潜り込んで受講した時のように、この授業も潜ってゲストの話を聞いていた。記憶に残っているゲストとしては、上野千鶴子、中沢新一、山本耀司、横尾忠則等がいる。また、ゲストではないが、芸術学科学生による軍艦島取材も面白かった。
上野千鶴子は、家族社会学、ジェンダー論、女性学のパイオニアで、東京大学名誉教授、NPO法人ウィメンズアクションネットワーク (WAN) 理事長である。最近の話題としては、2019年4月12日に行われた東京大学学部入学式において来賓として登壇し、祝辞を述べ、祝辞の中で、2018年に発覚した医学部不正入試問題に触れつつ、東大や四年制大学全体において女子の入学者の比率が低いことに言及し、さらに東大の学生生活や大学組織の中でも未だ性差別が根強く残っていることを指摘した。その上で新入生に対し、現在の自分があるのは努力ではなく環境のおかげであることを自覚するよう促し、自らの能力を自分のためだけではなく、機会不平等が残る社会において恵まれない人々を助けるために使うことを呼びかけた。最後に、異なる環境に身を置くことを恐れず、未知を探求しメタ知識を身につけるよう説き、祝辞を締めくくったことが、ニューズウィーク日本版のコラムにおいて冷泉彰彦が「名演説」と評価し、上野を登壇させた大学の姿勢を「危機感の表れ」と評価した。その一方で、週刊新潮の取材を受けた元東大総長の中でも、小宮山宏は賞賛する一方吉川弘之は一部の内容に批判的見解を示すなど、内容への評価は賛否分かれる形となっている。 インターネット上においても、日本のツイッターでは上野の名がトレンド入りし、祝辞に対して賞賛の声が上がる一方、「場違いな祝辞」などといった批判の声もあったなど、大きな反響を呼んだことが有名である。ただ、この時はまだ上野千鶴子は東京大学文学部助教授就任直前で、京都精華大学人文学部教授だったと思う。私は上野千鶴子の「女遊び」という著作が好きで、浪人時代、受験で何度も東京へ行く夜行バスの中で欠かさず読んでいた思い出がある。当時からお気に入りの先生だった。
「女遊び」は、当時、勤務先の女子短大の教壇でいわゆるわいせつ用語を多用し、「学界の黒木香」を自認する上野千鶴子の初めてのエッセイ集で、序章「おまんこがいっぱい」をはじめ、「姦淫の末裔」「異世代探検」など過激な主張に私はパンクを感じたものである。表紙をはじめ、本文中に散りばめられているアートは、女性器をデフォルメしたジュディ・シカゴの作品で、確か「ザ・ディナー・パーティー(1974-79)」だったと思う。この作品は、女性の歴史を視覚化したインスタレーション作品で、5年の年月と250,000ドルの費用をかけて制作された。現在はブルックリン美術館に常設展示されている。正三角形に置かれた長テーブル(各辺の長さは48フィート)には39人用のディナーセットの食器とナイフ、フォーク、スプーンが並べられている。それらのセットは歴史や神話で知られる女性たち、例えば芸術家、女神や活動家に捧げられている。皿の中心には女性器が描かれているか女性器のオブジェが置かれている。各皿の下に置かれたテーブルクロスには様々な模様と名前が刺繍されている。テーブルの下の床は三角形の艶のある金彩を施した陶器のタイルが敷き詰められており999人の女性の名前が記されている。食器やテーブルクロスは多くの女性ボランティアの手によるもので、刺繍や焼き物作りが長い間女性の手業として発展してきたことに由来し、歴史における女性の果たした役割を再確認しようとする意図がある。1979年にサンフランシスコ近代美術館で初めて展示された時は衝撃的な作品として物議をかもした。
現代文化論での上野千鶴子の講演は、よく知られた女性学やフェミニズムの学者としてではなく、社会学者としての講演で、「大衆・小衆・分衆」がテーマだったと記憶する。「少衆VS分衆」論争なるものもあり、電通入社後、富士ゼロックスのCM「モーレツからビューティフルへ」や、いずれも旧国鉄の旅行客誘致キャンペーンの「ディスカバー・ジャパン」、山口百恵のヒット曲で有名になった「いい日旅立ち」なども手がけ、「さよなら、大衆。」という著書もある藤岡和賀夫が有名である。藤岡和賀夫によれば、少衆論は、今や消費者の行動基準は「理性」ではなく「感性」であり、画一的な大衆消費から、それぞれの感性を共有する仲間たる「少衆」が個性的な消費を繰り広げる多様な消費の時代へ転化するという。こうした「少衆」のマーケットに対しては「どうしても多品種少量の方向に生産の仕組みを変えなければならない」と説いている。一方、分衆論は、当時主席研究員であった関沢英彦を中心とする博報堂生活総合研究所が著した『「分衆」の誕生』において展開された。分衆論でも少衆論と同様に、消費者の変化を主張する。この議論によると、画一的な大衆消費とは異なる個性的な消費が見られるようになったという。それう特徴付けるのは、「分割された」大衆としての「分衆」である。「分衆」は「人々はばらばらな生きかた、暮らしかたを志向」し、「他人と同じでは気がすまない」という。
現代文化論で生の上野千鶴子を見た素朴な感想は、思ったよりもずっと小さい女性だった。
中沢新一は、宗教学の立場から新宗教についても論じ、1980年代の末に、自身のチベット仏教の研究からも影響をうけているオウム真理教に関心を示し、発言をしており、私が大学を卒業した後の1995年に発生した地下鉄サリン事件など一連の事件がオウム真理教による組織的犯行であることが発覚すると、批判の対象とされ、多分こちらが有名だと思う。私が学生だった頃の話題としては、1987年から1988年に新任の教官人事をめぐって、東京大学教養学部の教官の間で発生した東大駒場騒動で私は中沢新一を知ることになる。この人事案は教養学部発足以来初めての教授会での否決となり、西部は否決に抗議して辞任した。西部曰く「東大の馬鹿騒ぎ」。一連の騒動は各種メディアでも大きく報道され話題となった。
中沢新一の経歴を改めて調べてみると、2006年4月、中央大学から多摩美術大学に移籍し、「21世紀の人間の学を、芸術を機軸とし人類学を基盤として再構築するため」の新たな研究拠点として多摩美術大学芸術人類学研究所 (IAA) を開設。同大学美術学部芸術学科教授を兼務しつつ、初代所長として「芸術の発生学」「神話の生命力」「野外をゆく詩学」「ユーロアジアをつらぬく美の文明史」「生命と脳」「平和学の構築」という6部門の研究プロジェクトを推進したとなっているが、多摩美術大学教員業績公開システムを見てみると名前が無いので、もう辞めてしまったのかもしれない。多摩美術大学芸術人類学研究所所長はケルト芸術文化、ユーロ=アジア世界の生命デザイン交流史研究家の鶴岡真弓多摩美術大学名誉教授に代わっている。ちなみに、多摩美術大学芸術人類学研究所は、6つの研究部門があり、いずれも広く社会にかかわり、下記3つの交流的創造とクロスした活動を行っている。
1.《学科間交流・大学間交流=インター・ディビジョン、インター・ユニヴァーシティ》
①多摩美術大学学内の諸学科、美術館・図書館、ゼミナール、課外活動を通じて在学生、卒業生、「タマビ」をめざす受験生をはじめ、幼児・初等教育機関との交流。
②他大学や研究機関などと相互交流と連携活動を推進。また全国の美術館・博物館、図書館、一般企業の展示館、アトリエ、映像スペースなどと、積極的なコラボレーション。
2.《地域交流=インター・ローカリティ》
研究所が所在するこの多摩地区をはじめ全国のコミュニティ、スクール、学びのシェアスペースや企業との交流を通して知識と実践をつなぐプログラムを推進。
3.《国際交流=インター・ナショナリティ》
①海外の大学・美術館・博物館・研究機関・企業などとの共同研究・展示プロジェクトなどを推進。
②これらの諸活動の成果を内外の各種メディアなどを通じて発信。
私が卒業し、社会人になって30歳の時に生まれて初めての海外旅行でチベットに行って以来、チベットにハマるのだが、その際、再び中沢新一に注目することになる。中沢新一は、宗教学者としての研究の対象にチベット密教を選び、大学院人文科学研究科博士課程在籍中の1979年、チベット密教の修行のためにネパールへ赴いた。チベット学者の石濱裕美子によると、中沢がチベット密教に興味を持ったきっかけは、ドイツ人アナガーリカ・ゴーヴィンダの自伝的著作「白雲の彼方に」である。カトマンズ盆地のボダナートに住んでいた亡命チベット人ラマであるケツン・サンポ・リンポチェに師事し、亡命ニンマ派の初代管長ドゥジョム・リンポチェやその跡を継いだディンゴ・ケンツェー・リンポチェにも会った。中沢が師と仰ぐケツン・サンポ(転生活仏ではないが後にケツン・サンポ・リンポチェと尊称される)は、ゲルク派の僧院で学問を修めたことのあるニンマ派のラマで、還俗して在家密教行者(ンガッパ)となった人物である。1959年にインドに亡命し、翌年ダライ・ラマ14世の要請でドゥジョム・リンポチェの代理として日本に派遣され、10年間、東洋文庫の研究員を務めながら東京大学などでも教鞭を執っていた。チベット学者の山口瑞鳳は彼は東洋文庫で自分の助手をしており、日本語が堪能であったと述べている。以後、ネパール、インド、シッキム、ブータン等で、ゾクチェンと呼ばれるチベット思想や瞑想修行法を学ぶ。「仏教の出てくる根源」への関心から行ったこの修行の影響が、後の中沢の思想を大きく特徴づけるものとなる。1981年、チベット難民の住む土地での寺院建立に向けて、ケツン・サンポとの共著名義で「虹の階梯 - チベット密教の瞑想修行」を出版する。
現代文化論での中沢新一の講演は、南方熊楠や一遍上人についてだったと思う。また、この時、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある補陀洛山寺や補陀洛渡海について初めて知った。南方熊楠の話は忘れてしまったが、一遍上人の話は、時衆を率いて遊行を続け、下人や非人も含む民衆を踊り念仏と賦算とで極楽浄土へと導いたのだが、その踊り念仏をロンドン・パンクだと評していたのが面白かった。補陀洛山寺や補陀洛渡海はずっと心に残り続けていて、21世紀に入って大阪に帰ってきてから、南紀白浜に遊びに行く機会が何度か有り、一度、車で那智勝浦まで足を伸ばした際に訪れたことがある。補陀洛渡海があるからだろうが、予想以上に海から近かったのが印象的であった。

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