キライでいいですけどね
原発が爆発して「子どもを守りたい」という心がそこらじゅうあふれた。みな必死だったけれどすばらしい意識の時間だった。人の中で初めて大きく息ができたような気がした。たとえば、物資を託す届けるとき、過去や人柄をたしかめたりしない。「信頼」前提で動く。ミスがあってもカバーして走る。誰のせいだとか、お礼がなかったとか、どうでもいい。「心が一つになる」という体験だった。文化や理念が違っていても、何の問題もなかった。それは、とてもあたたかくドライだった。わたしは、ややこしい常識を勢いよく蹴り飛ばせるのが爽快だった。
「ぜったい許せない」
ところが、時間が経つうちに私の心も、他の人たちも、へなちょこになっていった。守るよりも大事なことがたくさん出てきた。「聞いてほしい」「とても困っている」「あんまりじゃ無いあ」持ち込まれる問題とされることに、ふたたび心を奪われるようになってヘトヘトになった。
「関わるだけ自分の価値が落ちちゃうから離れることにしました」
「そうだよ、あんな人、あなたが関わる価値がないよ」
SNSで、会話の中で、そんなやり取りを見る。ナーバスだと思うんだけど、いつも泣きたいような気持ちになる。憎しみさえ生まれるようになって、わたしは萎れていった。
だから戦争は無くならないのだ。
戦争が無くならない仕組みがわかった気がした。だから、わたしはそんな風には絶対に流さない。価値のない人間、価値のないものなど存在しない。嫌悪感の出どころは自分だ。自分が理解する概念は自分が決めているだけのものだ。それに、自分のキライに責任を持たないで相手のせいにしたら、その瞬間に自分が弱る。キライ問題の解決は相手にしかできないことになるから。
自分は弱くなるし、気分は悪いし、問題は解決しないし、何より自力で手の打ちようがない。なんだか、ろくなことがなくてムカつくし、ナーバスなんで切ないさん(わたしは全てをキャラクター化出来る/なんの自慢)はいっぱい来るので、キライという心は一体どういうことなのか研究した。
わたしは、カンがいい方と思う。いつもカンが教えてくれた答えにいきつく方程式を探り出す。わたしのカンでは、キライは悪ではないはず、だからそんなに相手のせいにする必要がないはずだと思ってた。キライって自分の未熟を教えてくれる伸び代マーカーと思う。取り組むと広がる箇所にピッと立つ。自分になぜその感情が湧くのか、研究するといいことが起きる。感性が広がって人生がより豊かになる。その方程式はどれに当てはめてもうまく解ける。
けど、周りがうるさい。ほんとうるさい。
善の証明を提出する方に忙しくて、落ち着いて解答を求めておられんのよ。
一緒に嫌わないといじめられたりする。子供の世界だけかと思ってるけど、大人の世界の方が手が込んでるしややこしいし、死ぬ前に病院に行ったりするから問題になりにくい。そこまでして、この嫌悪の発症は自分でなく相手のせいだと正当化せないかんことがおかしいと思う。
「わたしは悪くないでしょっ、ねぇ、悪くないよね?お願い、悪くないって言って!」
わたしには叫び声がきこえる。研究する前は、わたしも声が枯れるほど叫んでいた。気が付いていなかったけれど。
研究の結果わかった。
要するにわたしたち、人目が気になるんですね。
みごとに、人目しか気にしていませんね。
人目にかなうなら、死んでも良さそうですね。
もう、ええやん。
心配している答えはもう出ている。
心配ない。誰も悪くない。一人も悪くない。
大丈夫。わたしにもあなたに何にも何の問題もない。
愛される好かれる望まれる。そこから漏れる人はおらんのよ。
(ああ、肝心なとこで書くのちょっとめんどくさくなってきた)
そして、出来事への解決の方法はみんな自分で持っていて数えられないほどある。そう考えると創造という魔法が使える。私たちは、誰のことも何も変えなくても華麗に解決できる。ダサイ洋服を組み合わせでときめくファッションスタイルに変えるように。ひと筆加えるだけで生き返らせるように。ゼラチンで固めてスライスして魔法のソースをかけるように。
未来の解決は、排除じゃなくってクリエイティブになるんよ。
【ざっくりしたまとめ】
嫌ってもいいよ。相手が悪くなくても。
キライは自分の伸び代ちゃんだから、おもてなしした方がいい。
交わるところで温度が上がるのはコミュニケーション
いちいち他人の賛同は要らんよ。
みんな漏れなく愛くるしいよ。
自分で思っているよりわたしたちは魔法使い。
チャンスはアクシデントの顔してる
自分に呪いをかけないで、人生は宝探しやと思う。
必要なのはセンスや。美意識をもとう。