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布団の中でボカロは聴かない

2024.09.04
ぺぎんの日記#157
「布団の中でボカロは聴かない」


私が初めて音楽に出会ったのは、中学1年生の給食の時間だった。

もちろん、そのときまで音楽を聴いたことが無かったわけではない。カーオーディオから流れる親好みの音楽や、小学校の音楽の授業で聴かされる歌、それにテレビで見るアニメの曲。それらには中学校に上がる前から触れていた。

しかし、そこに魅力を感じたことは無かった。音楽はあくまでも音の情報であり、もし、当時私が抱いていた音楽へのポジティブな印象を表現するのであれば「前も同じ曲を聞いたことがあるという安心感」。…とにかく「音楽」とは、私の中でその程度の存在だったのである。

そんな音楽への価値観が変わったのが、中学に入学して初めての給食の時間だった。コロナ真っ只中。全員が自分の席で、前を向いての黙食。そんな静かな時間に彩りを加えようと、中学の放送委員が2・3年生からアンケートをとって、給食時間中に人気曲を流すという企画をやっていた。

その企画で流れた曲の1つ「夜に駆ける」に私の心は奪われた。

衝撃的な歌詞、それを歌い上げるikuraの声、エレクトリックなインスト、それが爽やかに組み合わせられた「夜に駆ける」という1つの音楽。

衝撃だった。こんな音楽が世界にあったのかと、体がゾクゾクした。「夜に駆ける」が流れ終わるまでの4分30秒、私は中学初の給食を目の前にしたまま、動くことができず、ただひたすらに音楽を聴いていた。

家に帰ると真っ先に、給食の時間に聴いたあの曲を検索にかけてみた。当時は「YOASOBI」というのがアーティスト名だということも、曲は「(アーティスト)の(曲名)」という形式で紹介されるのだということも知らなかったから、曲紹介で読み上げられた「よあそびのよるにかける」という一文をそのまま「夜遊びの夜に駆ける」として検索窓に打ち込んだのを覚えている。

これが、私と音楽の初めての出会い。

次に私は、ボカロというジャンル出会う。中学1年生の冬休み前のこと。

YOASOBIや米津玄師、Official髭男dismなどのいわゆる「人気なアーティスト」の曲をひたすら聴き漁っていた私は、「みんながどんな曲を聴いているのか知りたい」という、今考えるとトンデモナイ下心から、放送委員になることを決めた。

給食の時間に流す曲の匿名アンケートを、クラスメイトから回収する。私は全員分を回収し、そして放送室にそれをまとめて置きに行けばよかったのだが…。好奇心を持った私は止まらない。回収の前夜、クラスメイト全員分の名前を書いた付箋を用意し、教室に向かう。朝のHRで「書けた人から持ってきてください」と言い、私の机にクラスメイトがアンケート用紙を持ってくるのを待つ。クリアじゃないファイルと、名前の書かれた付箋を忍ばせて。

もうここまで書いたら私がしたことの予想がつくだろう。そう、全員分のアンケートに対応するように名前の付箋を貼り付け、家に帰ってから一つ一つ聴いてみたのだ。この人ってこんな曲を聴くんだ。え、このアーティスト知らない。この曲好きかも。そうやって1つずつ聴いていったとき、ある1曲にたどり着いた。

カンザキイオリ「あの夏が飽和する。」

私が初めて、ボーカロイドというものの声を聴いた瞬間だった。無機質さが生み出す独特の雰囲気と、捨て身で書かれたような詩。「あの夏が飽和する。」に描かれた物語が、大きな圧力を持って迫ってきた。聴き終わってみると、私は泣いていた。

その曲をアンケートに書いていたのは、学校では静かにで、ごく一部の友人とだけ、たまに話しているような人だった。テストの点が特段高かったわけではないが、制服をきちんと着こなし、前髪を作らないポニーテイルで、しっかり者な雰囲気。でも言葉を選ばないとすると、いつ居なくなっても分からないような人だった。そんな彼女が、この曲をアンケートに書いた。それが私には、彼女の何かに対する抗議に思えてならなかった。

私は匿名のアンケートを、私利私欲のために名前を識別して回収してしまったことを後悔した。彼女には、本当に申し訳ないことをしてしまった。私はその夜、家で何度も何度も「あの夏が飽和する。」を聴き続けた。

これが、私とボカロの初めての出会い。

こんなふうに音楽と、そしてボカロと出会った私は、今でもやっぱり、好きな音楽の原点にボカロがある気がする。

もちろん、純粋に元気が出る曲や、人が歌う曲だって全然聴く。むしろ最近はそっちの方が圧倒的に聴く機会が多い。でもやっぱり、好きな音楽としてプレイリストに入っている曲の多くは「癖になるような無機質さを纏った、むき出しの感情を歌った曲」なのである。

ヨルシカのn-buna、かつてハチとして活動していた米津玄師、YOASOBIのAyase。シンプルに好いていたアーティストたちが、実はボカロ出身だったことも多くあった。

ボカロには嘘が無い。たとえ作詞者・作曲者が嘘つきだったとしても、歌い手だけが嘘つきじゃない。無機質に歌い上げられたそれらは、人間以上の「リアル」を持ってこちらに迫ってくる。歌い手のバックグラウンドが全く無いからこそ持てる、無敵のリアルさ。そういうところに、私含め多くの人が惹かれてるんじゃないかと思う。

私の中学時代は、ボカロによって変えられたと言っても過言じゃない。ボカロは私を、常に新しい世界に連れて行ってくれた。ボカロのお陰で、もっと世界を知りたいと思えた。

だからかも知れない。最近は全然、新しいボカロを聴かない。今の私には中学のときのような無敵さも、苦しみを詰め込めるだけの余裕も無い。ボカロを聴くだけで体力が尽きてしまいそうになる感覚。

でもたまに、昔聴いていたボカロは聴いてみたりする。ルールを決めて。

「布団の中では決して聴かない」

以前、就寝前に布団の中でボカロを聴いたとき、中学時代の色々が走馬灯のように次々と頭に浮かんできて、心がざわざわして寝れなくなったことがある。

やはりボカロには、それだけのパワーがあるのだと思う。中学の頃の記憶と強く結びついたボカロは、寝る前のフワフワと行き場を決めかねている心を、過去に引っ張っていってしまう。危ない感覚だった。そのままだと劣等感とノスタルジーに支配されてしまいそうな。

だからボカロを聴くときは、日中に、覚悟を決めて聴く。

決して、布団の中でボカロは聴かない。

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