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命を生きる幸せ、終える幸せ
「彼女は安楽死を選んだ」という、ドキュメンタリー番組。
2週間くらい前、スマホの小さな画面で一度みたきりなのだけれど、あれから毎日、1日のどこかで彼女のことを思い出している。
(彼女はまだ治療法がない進行性の病気にかかり、数年後には寝たきりで言葉も話せなくなる状態になると知って、「自分らしく生きる」ことができるうちに安楽死を選んだ)
私は、安楽死に賛成でも反対でもない。
というか、まったくどちらにも辿り着けない。(だから毎日思い出すのだろう)
賛成派の意見を読んで「なるほど」と納得したかと思えば、反対派の意見を聞いて「それもそうか」と考え直したりしている。
だけど、わからないなりに、わからないという今を書き残しておこうと思った。
あのとき彼女が亡くなる映像を観て、私は泣いた。
生き続けられる人生があるのに、本当にそれでいいの?と思った。
だけど、その後くり返しその瞬間を思い出すうちに、私は彼女があんな風に最期を迎えたことに、ホッとしている自分に気が付いた。
私は看護師なので、死には多少の親しみがある。
小さな赤ちゃんもたくさん見送った。夜中に、付き添い家族のいない患者さんを、自分の腕の中で看取ったこともある。
私はその人たちの人生をあまりよく知らないけれど、どの子も、どの人も、本当に最期の一呼吸まで、一生懸命に生きたように思えた。
彼女の死は、それらとはとても違っているように見えた。
それはなんというか、余裕のある死だった。
あんな風に大切な人たちに感謝と愛情を伝えながら、笑顔で亡くなる人を、私は病院で見たことがない。
死にゆく彼女は、確かに幸せそうだったのだ。
2011年、私は東北で被災者の人たちと過ごした。家族を流された人たちとも、たくさん会った。
中には、亡くなった家族について語ってくれる人もいたけれど「妻はオレを恨んでるだろうなぁ」とか「何十年も連れ添ったのに、お礼の言葉も言えなかった」とか、そんな風に傷ついている人たちがとても多かったように思う。
そのときに、私は思い知ったのだ。
お別れは悲しいけれど、お別れの前に「さよなら」や「ありがとう」を言えることは、とても幸せなのだと。
だけど、だから安楽死がいい、とは思えない。
そう思えない理由は色々あるけれど、そのうちの1つは、岩崎航さんという人の存在だ。
彼は筋ジストロフィーという進行性の病気で、いわゆる寝たきり状態である。人工呼吸器をつけ、胃ろうから栄養を流し込んで生きている。
彼は、本当に強くて美しい詩を紡ぐ。
それは、ここに生きているのだ、という言葉だ。
彼の詩集「点滴ポール 生き抜くという旗印」には、こんな風に書いてある。
安楽死という
スマートな
断筆より
泥臭くとも
今日を生き抜く
人それぞれの命のあり方がある。
彼の生き方が、障害を持ったすべての人の模範解答というわけでもないだろう。
彼女はどうしたらよかったのだろう。
これからも一定数うまれ続ける彼女のような人たちは、どうすればいいのだろう。
そして、いつか彼女の立場になるかもしれない自分は?
・・・私にはまだ、たどり着けない。でもまだもう少し、考え続ける。