鬼のすむ街・北上へ
久しぶりの更新になってしまいました💦
連休期間、2泊3日で岩手県の北上〜遠野を訪れています。「切貼民話師」として各地の民話や伝承ゆかりの地を巡る活動を始めて1年が経ち、「このような活動をしているなら遠野を訪れるべきだ!」と直感的に思ったため。
今回のブログは「鬼の館」を中心に北上の散策を行った初日のレポートです。
鬼のすむ街・北上
実は東北地方を訪れるのは今回が初めての私。大宮駅から新幹線に乗り、北上駅で下車しました。
駅構内には、北上市の周辺に伝わる「鬼剣舞(おにけんばい)」についての展示がありました。
また、駅東口には鬼をモチーフにしたモニュメントが。調べると、北上市の市民憲章の冒頭には「あの高嶺 鬼すむ誇り」という言葉があり、「鬼」という文化が北上市に根差していることがうかがえました。
もはや恒例、レンタサイクル!
ホテルに荷物を預け、駅東口近くにある物産店にてレンタサイクルをしました。もはや車の免許がない私の散策のマストアイテムとなっているレンタサイクル。北上にもあって良かった!
早速、お目当ての「北上市立鬼の館」へ向けて自転車を漕ぎ始めました。返却時間が限られていたので必死に漕いでおり風景写真を撮る余裕がありませんでしたが、道中でも鬼剣舞にまつわる像などを見ることができました。
さらに「鬼剣舞の里」のモニュメントがありました。石碑に書かれた言葉が素敵。心を踊らせる、その躍動感こそ踊りなのでしょう。
様々な鬼を知ることができる施設、鬼の館
さて、北上駅から自転車で約1時間。9kmちょっとの道のりを経て、北上市立鬼の館へ到着しました。館内は撮影可・SNS掲載OKとのことで、たくさん写真を撮影。受付を済ませると、まず目を惹くのが「北上鬼剣舞・大型鬼面」です。
さらには鬼太郎たちもお出迎え。そうか、鬼太郎も「鬼」が名前に入っているのか!
また、「鬼ど」という、鬼を捕まえるための道具が置かれていました。うなぎやどじょうを捕まえる道具から着想を得たようですが、ドリームキャッチャー的な要素も感じられました。
展示室は、鬼についての詳しい説明のパネルや様々な鬼の面、岩手周辺の鬼にまつわる民話や伝説などの映像など、とても充実していました。
また、日本だけでなく世界の鬼についての展示もありました。もはや「鬼」という概念で括って良いのか分かりませんが、類似する文化が世界各地で見られるのは不思議だなぁと思います。
討伐され「正史」に隠された存在としての鬼
不思議でちょっと怖い鬼たちの造形美にすっかり惹きこまれながら展示を眺めていると、こちらのパネルに目が留まりました。
歴史の授業で習ったきり思い出す機会もないままでしたが、惨い歴史ですよね…。
もともと住んでいた人々の支配を正当化するため「鬼」という概念が用いられたということを知り、胸が痛みました。「鬼」たちはバラバラにされて海に投げ捨てられ、その一部が流れついた場所が「脚崎」「首崎(こうべざき)」などの地名として残り、現在に至ります。
強者の側の視点から見た歴史が「正史」として讃えられ、虐げられた人々の歴史は無かったこととして隠される…。「鬼」の語源として「隠(おぬ)」があるということを聞いたことがありますが、隠れて生きざるを得なかった人々の苦しみや、「正史」によって隠されたもう一つの歴史を意味しているように思えました。
オーガポンというポケモンと「鬼剣舞」
あまりゲームをしない私ですが、ゲームボーイ版の初代が出た頃に小学生だったということもあり、そのご縁?で現在でもポケモンのゲームをプレイしています(とはいえ最近は忙しくて出来ていませんが)。今となっては1000匹以上いるポケモンですが、全部名前はわかります。
そんなポケモンですが、最新作「スカーレット・バイオレット」のダウンロードコンテンツとして発売された「碧の仮面(みどりのかめん)」というシナリオの舞台は、ずばり「キタカミの里」。キタカミの里は東北周辺の要素や日本の古き良き風景の要素を混ぜ合わせながら生まれた架空の地域ですが、その名の通りおそらく北上市もモデルとなっているように思われます。
キタカミの里で繰り広げられる物語のキーとなるポケモンが「オーガポン」。恐ろしい表情の面を付けていますが、素顔はとても愛らしいです。
そんなオーガポンですが、キタカミの里では悪者として語り継がれており、かつて桃太郎とその家来たちをモチーフにしたポケモンたちによって追い払われ、今(=ゲームのシナリオ開始当初)ではひっそりと山奥で暮らしています。そして、オーガポンを追い払ったポケモンたちは「悪い鬼を追い払った英雄」として祀られ、親しみを込めて「ともっこさま」と呼ばれるようになりました。
…ところが、実際は「オーガポン=悪、ともっこさま=善」という構造とは異なる歴史があり(これ以上はネタバレになるため書きません)…というのが碧の仮面の大まかなストーリーです。鬼の館の展示を観た後に碧の仮面のストーリーを振り返ると、朝廷と坂上田村麻呂、「蝦夷」と呼ばれ蔑まれ「鬼」として扱われた先住者の関係性や歴史が自然と思い起こされます。
さて、ここでもう一度鬼の館の「北上鬼剣舞・大型鬼面」の説明を読むと「仏の化身を表すといわれる角のない鬼」という一文が目を引きます。
また、様々な場所の説明から、鬼剣舞は「悪魔退散・衆生済度」の願いを込めて行われていることが分かりました。
鬼剣舞が行われるようになったと言われる時期は朝廷による侵攻の歴史とほぼ重なりはしますが、上記のように多様な由来を持つ概念であるため、「蝦夷討伐」で言われる「鬼」と鬼剣舞の「鬼」とを並列化・同一視してはいけないと思います。また、もともとあった文化(面を付けて厄を払う)や信仰の歴史を含む様々な文脈が複雑に入り混じりながら今日の文化が築かれているため、専門家でない私が安易に双方の鬼の関連性について述べることは出来ません。
が、少なくとも鬼剣舞の鬼は「差別する−される」という権力構造とは異なる文脈から生まれた存在であり、人知では理解出来ない自然災害や疫病など不可思議な現象を受け入れ、乗り越え、調和しながら生活する過程で人々の暮らしや文化の中へ溶け込んだ存在であると言えそうです。未知なもの、不可思議なものを朝廷が行った侵攻のように討ち払うのではなく、受け入れ、もてなし、祀り、文化の中に・あるいはヒトの心に宿しながら新たな歴史を紡いでいく…。そんな北上の人々の温かさやたくましさ、しなやかさを感じ、心が震えました。
まとめ〜鬼と共に生きる〜
災害や疫病を齎す存在としての鬼、支配階級から先住者たちに対して差別的な概念として用いられた鬼、その無念さから生まれる鬼、心理的・精神的なものとして心に宿る鬼、文化や信仰の対象となる鬼、キャラクター的な形で人々から愛される鬼…。鬼の館の展示を通していろいろな鬼について知ることができ、考えさせられました。
とりわけ、鬼という概念を用いながら、未知のもの、不可思議なもの、時には災厄を齎す様々なものと上手に付き合いながら生きてきた日本人ならではの感性って素敵だなぁと感じることができました。
北上を訪れ、鬼の館で感じ、考えた思いを胸に、これからも切貼民話師としての活動を行っていきます。