フレネ教育研究会に参加させていただきました

今日はフレネ教育研究会に初めて参加させていただきました。今まで興味はあったものの、なかなか接点がなかったため、たくさんの学びを得ることができました。その中でも特に自由テクストが持つ2つの可能性について、私自身の学びや興味関心がある分野と結び付けながら考えました。

マリオ・ローディの実践〜「個からコミュニティへ」のきっかけとしての自由テクスト〜

午前中は、フレネのアプローチから学びイタリアで実践されたマリオ・ローディについて、資料や実際の授業動画を通して学びました。お恥ずかしいことにこれまでローディについては知らなかったのですが、『ファンタジーの文法』などを書いたジャンニ・ロダーリと接点があるとのことで、興味深く資料や動画を拝見しました。

画一的・権威主義的な教育観を越えて、こどもたちの生活経験から出発するー。それは個を分断するのではなく、むしろ協働・共創造を生み出すのだと感じました。

このことを象徴していたのは、ある男の子の父親が亡くなったという自由作文をきっかけに生まれた絵画表現の場面でした。重く辛いテーマを前に「死=暗い=冬」というイメージが浮かび上がりますが、ある子が木々の芽を描いたことによって、少しずつ絵画の中やこどもたちの内面に豊かな彩りが生まれていきました。絵画の中で参列者は喪服ではなくカラフルな服で着飾り、その中で父親を亡くした男の子は泣いていました。たしかに男の子は悲しいし辛いけれど、彩りの中に包まれ、孤独ではない。周りのこどもたちも画一的な悲しみ(=同じ色の服)を表出するのではなく、それぞれの〝生〟を震わせながら、それぞれ違う悲しみを表している。確かにスタートは「男の子の父親の死」「悲しみ」という個の体験かも知れません。けれど、一人ひとり異なる彩りを表しながら全体として調和された絵画のように、個と集団は矛盾し対立するどころか、むしろ互いに連関するものだということを感じました(偶然、現在サマーヒル・スクールの創始者であるニイルの文献を読み漁っていますが、ニイルもこれと重なることを大切にしていたようです)。

また、ローディが積極的に学校外へ出向く姿が動画で映し出されていました。公立学校故にローディは孤立してしまいがちで、だからこそ外に繋がりを持ったのだろうという考察をブレイクアウトセッションで報告者の先生から教えていただきました(この思いは痛いほどよくわかるため、何度も頷きまくってしまいました笑)。
動画の中で、ローディは農家の協同組合を立ち上げた方のもとへ行き、話をしています。それは「まち探検」のためのアポでは決してなく、「なぜ人々は協働できないのか。どのようにすれば、個人主義による対立を越えた協働を生み出すことができるのか。それを実現した、あなたの言葉をこどもたちに伝えたい」という思いがあってのことでした。内側から変えていくことは難しい。だからこそ、枠を越境して「個人主義からコミュニティへ」という文化を生み出そうとするローディの姿は、ダニエル・ピンクが『ハイ・コンセプト〜「新しいこと」を考え出す人の時代〜』(三笠書房、2006年)で述べている「ハイ・コンセプト」と「ハイ・タッチ」という概念と重なるように思います。

「システムは自由な人間を恐れている。だから教師は、人間の能力や知性、考える力、創造力を高めることに努めなくてはならない」

上記はローディが述べていた言葉です。ここにも表れているように、こどもたちが新聞を作って販売するという実践からは、(「新聞は学校の外に出ることができる」という言葉からも明らかであるように)新聞という媒体を用いて緩やかに「システム」の変革を要求し、「こどもたち(に限らず全ての人間)は今・すでに『自由な人間』である」という人間観を社会の中に涵養することも意図していたのだろうと感じました(全くの素人なので、的外れな解釈かも知れませんが…)。

ブレイクアウトルームでも話題になりましたが、「紙に作文を書く」という方法論に囚われるのではなく、「今の時代、今いる環境・状況の中で、どのように『研究者・探求者』としてのこども観や、予定調和的な『ゴール』指向的な教育観を越えて、未知や不確かさの中で生まれゆく生き生きした学びのプロセス・意味ある瞬間を伝えていくか」、単なる方法論としてではなく、むしろローディの姿勢から学ぶことが重要だと感じました。ローディが今の時代に生きていたら、果たしてどのような方略をとるのでしょう。とても興味深いです。

学校現場での実践報告〜「内面の表出」から「間主観的な場」「出会いのモーメント」生成を生み出す自由テクスト〜

午後はお2人の先生方からの実践報告がありました。いわゆる「コロナ禍」において、これまで培ってきた豊かで生き生きした実践が軒並み「密を避ける」「ソーシャルディスタンス確保」によって変更を余儀なくされる一方で、どのようにこどもたちと「いま、ここ」において豊かな実践を築いていくかを模索し実践されていらっしゃる先生方のお姿に感動しました。

報告の中で、自由テクストをきっかけにこどもたちが内面を表出し、それを重なる中でそれまでトゲトゲしていたクラスの雰囲気が温かなものへと変容したという報告がありました。またこれを受けたブレイクアウトルームでは、大学の先生から、講義の中で「いじめ」について取り上げたところ、最初は「いじめは悪い!」「いや、そうではない!」という二項対立的な議論が展開したが、ある学生が「私、いじめてしまった経験がある」と発言したことをきっかけに対立的な授業の雰囲気が変わっていったというお話が紹介されました。これらの事例から、「感情を表出するーこどもを知る」というリニア的な関係性にとどまらず、ボストン変化プロセス研究会が定義する「間主観的な場」や「出会いのモーメント」を生み出すきっかけとしての自由テクストの可能性を感じました。

二つの心が対峙すると、何か新しくユニークなもの、つまり、間主観的な場が創造される。間主観的な場においてのみ人は、探索し、共に遊び、影響し、ついには他の心と協働で複雑な活動へと第一歩を踏み出すことができる。泳ぎを学習するには水場が必要なように、他の心といかに何かするかを学習するには、共同の心理的な場が必要である。共に在る状態joint stateが望ましいのは、それ自体が目的だからではない。共に在る状態を達成する能力が、治療において、もっと一般的には発達過程において、二人で一緒に何かを成し遂げることを可能にするからである。間主観的な場を求め、そこで二人の協調した活動を展開したいという要求は、間主観的二者関係状態を達成するにあたり、強力な起動力となる。(ボストン変化プロセス研究会『解釈を越えて』p.78、岩崎学術出版社、2011年)
(不確かさを孕むアドリブ的な、数珠繋がりのような治療のプロセスが間主観的に)進んでゆく間に、二人の行為が相補的にフィットし合い、しかも、フィットしているという感じをめぐって二人が間主観的に出会うという、二重のゴールが突如として実現されることがある。それが〝出会いのモーメント〟である。言うまでもなくそれは、長い期間かかって十分に準備されながらも、確定されたことがなかったものである。そうしたモーメントは、共同で構築されるものであり、それぞれから、何かユニークなものが供給される必要がある。出会いは、お互いの特異性によって大きく左右される…。(同上、p18)

上記はセラピー理論故に二者関係が中心ですが、それを個と集団の豊かな連関性、それを基軸に据えた発達観・教育観へと拡張することが、保育・教育分野における実践研究の役割なのではないかと思いました。そのために、「間主観的な場」や「出会いのモーメント」、さらにはケネス・J・ガーゲンが『あなたへの社会構成主義』(ナカニシヤ出版、2004年)の中で述べている「まだどちらの側にも実現されていない『現実』の未来図に加わる瞬間ー対話における想像的な瞬間ー」や、カルラ・リナルディが『レッジョ・エミリアと対話しながら』(ミネルヴァ書房、2019年)の中で述べている「生成的な変化の局面」に光を当てることが重要であるように思います。

まとめ

以上、フレネ教育については全くの素人かつ未熟な私なりの考察でした。まだまだ実践経験が乏しい私ですが、こちらのブログ(https://note.com/pegasus19/n/na219aef71da4)にまとめたプロジェクトで生まれた様々な出来事を思い浮かべながら、ローディについての報告や学校現場の実践事例についてのお話を伺っていました。今回の研究会を通して、フレネについて関心を抱くことができ、ローディについては研究会の合間に早速文献を注文しました。教義的・教条的な捉え方ではなく、根底にある哲学をしっかりと受け止めながら、これからも私なりに実践を重ねていきたいです。

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