論理的とは何か
人間の認知は矛盾している。
明は無明であり無無明であり無無無明である。我々が見ている風景は、飽くまで光の波長の屈折に過ぎず、いわば幻のようなものだ。幻に対して、これこれはこういうものだと決めつけるのは、周囲にある空気を指さして、「ここからここまでがジョニー君で、ここからここまでがメアリーちゃんだよ!」と言っているようなものである。
このような方に必要なのは理屈ではなく精神病院という発想になるかもしれないが、その理論でいけば、人類のほとんどは今すぐ精神病院に行って治療を受けねばならない。
つまり、正しいとか間違っているとかいう主張は主観に過ぎず、客観性も論理性もそこには無い。
ヒトの認知によって正しさは定められるが、ヒトの認知が元来矛盾していることは、科学的に証明されている。
数学であれば「不完全性定理」、量子力学であれば「不確定性原理」、熱力学であれば「エントロピー増大の法則」+「エネルギー保存則」、いずれも証明の反証が証明されており、矛盾している。厳密に言ってしまうならば、証明されているものは何一つとして無いとも言える。
それ故、多数論によって正しさを認め、それによって生まれた理論、科学的手法によって価値のあるものを発明し、人々の生活に利便性を与えるのが科学の役割であり、「真理を求めようとすること」という側面はあっても「真理を証明しているもの」ではない。
「論理的」を辞書で調べると、こうある。
また、論理的思考には大きく分けて二つある。
片や、個々の観察によって答えを出し、片や、他のことと比較して答えを出すとあり、これまた矛盾している。さらに演繹は論理的に正しい推論を重ねて結論をひき出すこと。と書いてある。論理的であることを説明するために論理的に正しい推論を重ねるというのは、循環論法となり、矛盾である。
このように、人間の認知は元来矛盾しているものであり、論理的なんて言葉を持ち出す時点で、非論理的なのである。
とはいえ、文は明朗快活で理解しやすくして、他者にわかりやすくした方が社会運営にとって合理的だし、理論の循環、無限遡行、悪魔の証明が発生しないようにどこかで誰かがここまで、と主観的な判断で正しさを決めつける方が、社会運営にとって合理的と言えるのは確かだ。
世界そのものの真実は、理路整然なのか混沌なのかはっきりとわからないが、人間の認知によると世界の姿は混沌であり、人間の認知が矛盾していることは科学で証明された。よって世界が理路整然とした確かなものであるということを証明するには、今までにあった科学を真っ向否定し、新たな理論を構築して、実証と実験によるエビデンスを掲載して証明しなくてはならない。それが論理的と言うものである。
ぼくがこう思うから、世界は理路整然としている。ではまったく論理性の欠片もないのである。
とは言っても、思想や信条、言論や表現は基本的には自由ということに法で定められているので、他者のそれらを侵害しない限りに於いては、どういう見方で世界を見ようが自由である。問題は、自分の世界を他人に押し付けようとしてしまうことだ。これは他者の自由を侵害している。
ただし、あくまでそれらは人が定めた法によるものに過ぎないが。
元来矛盾するヒトの認知によって自然が解釈され、便宜的に区別、分別し、科学が生まれ、法が定められた。それだけであり、いずれも絶対的に正しいものではない。そして個の客観などというものは存在せず、主観の集合、即ち多数論証によって客観的なものが定められているに過ぎない。
よって、科学的、論理的であるというのは、多数の意見の一致ということになる。天才の理論が認められるのは多数が支持するからであり、また、その天才の理論も反証可能なものであり、矛盾している。
単に皆から支持され、道具として活用できるからというだけで、それが絶対普遍の真理ということではない。
そしてそれは、誰の理論であっても同じことであり、つまり観察者すべてが正しいとも間違っているともとれる。
つまり議論とは飽くまで、より道具として洗練されていると多数が認め、実際に活用するかどうかを暫定するものであり、絶対普遍の真理を決めるものではないし、暫定であるので覆る前提である。
私が正しい、は私の世界でのみで通用するものであり、あの人の正しさ、は所詮あの人の世界でしかない。仮に誰かの正しさを受け入れるのであっても、誰かの意見は自分が解釈した時点で別のものになっている。
お互いの違いを認めた上でお互いをあるがまま受け入れる。それが人間に出来る最大限の尊重、尊厳の守り方であり、平和の礎だ。「善人なをもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」即ち、悪も正しいとした上で、だけど飽くまで自分は悪を行わない、とすることが悟りなのだ。ソクラテスも韓非子も、だからこそ毒を飲んで自ら命を絶ったのである。
自分が正しいと思うから戦ってしまうのである。自分が無いとすれば戦うことはしない。だが正しさを暫定しなくては社会の秩序が保てない。だから法を定め、法に判断を委ねるようにしたのだ。
善人とは自分が正しいと思っている、良い奴だと自覚している者を言う。そして、悪人とは自分が間違っている、悪い奴だと自覚している者をさす。自分を悪い者だとする自覚が無い者は善人である。
悪い奴だという自覚が無く、法に反することをしている人間は罪人であり、悪人ではない。良い奴だという自覚が無く、法に従っている人間は罪の無い人というだけで、善人ではない。自分の主観で他者の善悪を判断するのは独裁であり、私刑であり、贔屓である。それは偏見であり、差別に他ならない。
主張を認めさせることは従属を求めることを意味し、主張に反論する者を認めないなら、反論者は従属から解き放たれることが認められないということになってしまう。善とはこういうことだ。
それでも善人で居ようとするなら何も言うことはない。自由である。
何が「私」を生かしてくれているのか、何が「私」を「私」としているのか。「私」を「私」たらしめんとするのは「私」以外の何かではないか。であれば「私」が「善人」であるはずがない。「私」は「悪人」だ。自分の問題を他者に擦り付けておいて、何が「善人」だというのか。
「私」は「悪人」だから、他者に感謝し、「ありがとう」と言う。「私」は「悪人」だから、他者を認め、受け入れる。「私」は「悪人」だから、他者が「私」に対して不快に感じたなら「ごめんなさい」「すみませんでした」と謝罪する。「私」は「悪人」だから、他者に譲る。
「私」が「私」を「悪人」だと認識しても、「私」は「変わらない」。何か変わるものがあるように錯覚するから、「私」は「悪人」ではないと思いたがるだけなのである。即ち、善人とは「気持ちよくなりたい」だけの人なのである。気持ちいいかどうかは、神経伝達物質によって決まるものなので、そんなものは文字通り、「気持ちの問題」である。
善人で居ようとしなくても良いのである。善の世界の住人となれば悪を定め、悪を滅ぼそうとするようになる。他を滅ぼすような人間が善人と言えようか、善悪の基準ほど滑稽なものはない。
因果で物事を判断すれば合理的、論理的であろうか。では因とは何か、果とは何か、縁とは何か。いずれも単なる概念であり実体は無い。即ち空である。「空」を「色」とするのは「法」である。よって、「法」で判断するのが合理的、論理的と言えよう。「法」を定めるのは多数であり、多数論証を用いることになる。因果で判断してはいてもそれは、「一つの因果」ではない。「多数の視点による因果」、即ち「法」だ。
自分の正しいと思う答えは自分の中にあれば良い。他者は関係無いのである。わざわざそれを主張して認めさせようとするのは、自分に自信が無いか、さもなくば相手を支配しようとしているか、どちらかでしかない。
結論、論理的であるということは、客観性があるということで、客観性があるということは、多数の意見を集約するということになり、多数論証となる。多数論を認めないのは論理的とは言えないし、多数が正しいからと言って何でも認めてしまっては混沌となり、これまた論理的とは言えない。なので多数の人が集まって議論し、ちょうど良い着地点を見つけ、妥協することが論理的、ということになるだろう。