愛をとりもどせ
皆さんこんばんは。
さて、今回は不確定性の世界と不完全性の存在しか居ないこの世界にどうすれば愛を取り戻せるか、についてお話したいと思います。
ぶっちゃけこの世界は、北斗の拳の世界と何ら変わりません。権威の持ち主をラオウやサウザーに置き換え、多数派をモヒカンに、法を暴力に置き換えるとアラ不思議、北斗の拳の世界の出来上がり。
まあ暴力で支配された世界よりは楽に暮らせるから、北斗の拳の世界よりはよっぽどマシではあるのですが。
しかし世界には紛争地域、戦争状態にある場所などがあり、そこの惨状は、普通にモヒカンに支配された街よりも酷かったりします。
こんな酷い世界に、どうやって愛を取り戻せば良いのか?
まず昔々に戻りまして古代の都市には必ずといって良いほどに宗教的な意味を持つ遺跡が存在します。
とにかく宗教が必ず生まれます。
何故か。
正義と清さと完全さを求めた結果です。
文明レベルが低いほど、人は神を求めます。何故なら、文明レベルが低いと教育のレベルが低く、教育のレベルが低いと民衆の知能は低い水準となり、低い知能の人間は精神性も低くなりがちで、精神性が低いと理性を保てずに暴れるようになるからです。
精神性の低い人々を率いるためには完全性が必要となりますが、自然界において完全なものはありません。そこで人が定義した完全な存在、神が必要となってきたわけです。
しかしながら、その完全なる神に依存し、崇拝した結果どうなったか。
解釈や都合によって教えが湾曲し、教義は分裂し、こんにちに到っては、自分たちの考えが正しいと言い張って戦争にまで発展するようになってしまいました。
聖書を紐解いても、モーセの掟に、殺すな犯すな盗むなと書かれ、イエスの教えに、怒ってもならない、他人の妻に欲情してもならない、相手のものを自分のものにしようとしてもならない、裁いてはならない、自分が正しいと驕ってはならないと書いてあるのに、何故かそれを信仰する人の中に、常に争っている人や傲慢な人がかなりいます。
神と絶対を定義し、平和を唱えてもこのありさまです。
となると、一人一人が平和を求めるようにならなければ解決はしないでしょう。
全ての人間が余すことなく、です。
方法はもはや、神にも絶対にも依存せず、尚且つ自分自身にも依存しない、あと残されたモノは、愛しかない。
自然に任せるしかないのかもしれませんね。
なので出来ることは一つだけです。
あなたがもし平和を望み、他者の幸福を見て喜び、自分の幸福も求めるのなら、ただただ、隣の人に優しくしてあげてください。
そして攻撃を受けても反撃せず、説得するか、無理であれば逃げるようにしてください。命の危機を感じたなら、止む無く相手を無力化しなくてはならなくなることもあるでしょうが、可能な限り暴力に訴えないようにすることが肝要でしょう。
優しくした結果つけあがって利用しようとする者もいるかもしれませんが、それを赦してあげましょう。そして可能な限りそういう者にも、愛の重要性を説きましょう。
説得力と根気があれば説得できる可能性は高まります。
愛は赦しと献身です。確かに一人が実行に移しても、どこかに愛の無い人が居れば途端に無力となりますが、辛抱強く続けていくことで、徐々に世界に愛が拡がるかもしれません。
はじめから無理に我の強い人を説得しようとせずとも、争いを好まない傾向の人に話しかけて、愛の重要性を説くくらいで良いんです。愛を大切にする人が多数派になれば勝利です。
ってこれ結局イエスの教えなんっすねぇ・・・・・・。
釈迦の教えはあくまで輪廻転生に終止符を打つ方法みたいなものだからなー。死を前提にした教え。あれはあれで大事な心構えではあると思うけど。執着あると辛いだけですからね。
社会を維持する困難さを何とか出来ればなあ、気が狂うほど忙しいと、どんなに穏やかな人でも悪魔みたいな形相なるしな。
やっぱなんかスピリチュアル系の人が言うように、物質の豊かさよりも精神の豊かさを求めるべきなのかもしれない。物質偏重なことに問題があるのかもしれないなあ。でもどうなんだろうな、マズローの欲求段階を考えると、低次欲求が満たされないと高次欲求が生じないという問題点が・・・・・・うーん駄目だ、もっと学んでから考えよう。
まあ、今の自分に考えられる最善策がこれくらいしかないっす。もっと賢い人居たら教えてくだされ。
皆で考えて、力が支配するこの世界に愛を取り戻そうではありませんか。