教育は貧弱な奴隷しか生まない

もう古いんだと思う、教育というモノ自体が。昔は教育が必要だった、と思う。というのも、本は高価なものだったし誰でも気軽に読めるものじゃなかったし、インターネットなんてものも無い時代があった。しかし現代はスマホで検索すれば腐るほど情報が転がっており、古今東西様々な本が、わずかな月額サブスクで読み放題になるサービスもある。

そして、教育というのは「教え」「育む」わけだけど、はっきり言って窮屈な場所に押し込められた挙句、上から目線の偉そうな奴らに無理矢理詰め込むように教えられても、何一つ楽しくないだろうし、学びへの意欲も薄れる一方だろう。

偉そうな奴から仕方なく教わって、真面目に勤勉に文句の一つも言わずもくもくと教科書を読んではノートに書き込んで、などしても、単にYESしか言わない模範マンが量産されるだけである。どうせ近い将来、言われるがままにやるだけの作業というのは無くなっていくので、もはや奴隷を量産する必要は無い。

教えるのは最低限で、自ら学ばせるように導く方が良いだろう。そして古来より続く、罰を前提とした教育ではなく、賞を前提とした学習の推奨をしていくべきだ。鞭を捨てよ!飴を持て!褒めちぎるだけで良い!否定の一切を捨てよ!

ところで、学ぶ意欲のある人とはどういう人だろうか。教師に対して生徒の態度は、大きく分けて三種類ほどになると思う。

1.質問や授業を受けて、疑問を持ち、時には反論し、説得を受けて、なるほどと頷くタイプ

2.ハキハキとした声で、はい!わかりました!と、何一つ文句を言わず、教師の言うとおりにするタイプ

3.だりーなこのクソセンコー偉そうにしやがって、何言ってんのか全然わかんねーんだよハーゲ。と授業など端から受ける気もないタイプ

このうち、一番学ぶ意欲のある者は、1だ。そして次に学ぶ意欲があるのは、意外にも3であり、2はまったく学ぶ気が無い。しかし、教師受けや上司受けが一番良いのは2である。2で成績が良い者を、優等生という。3は不良と呼ばれる。1は、面倒くさい理屈屋として嫌われる。

だからいけないのだ!2のような奴隷はもうこれからの時代必要ない!むしろ3のようなワイルドな奴の方が良い。自分というものを強く持っていて、自分なりの価値感を持っていて、意外な視点を持ちやすい。

ではまず、何故2が一番学ぶ気が無いと言えるのか。

何にも疑問を抱かず言うことを聞くというのは何故かというと、面倒だからである。誰にも逆らわず、ニコニコしながら、ハイ!わかりました!と言っていれば、余計な会話も省けるし、軋轢も生まない。一番合理的な判断と言える。しかし、結局それは裏を返すと「面倒だから、表面上だけ言うこと聞いておこう。」という拒絶の意思表示に他ならない。表面上繕っているだけなので、教わることも学ぶこともしない。けどそういうタイプは大体頭が良いので、成績は良いのだが、教科書通りにしか出来ないタイプになりがちだ。

一方3のようなタイプは「こいつ面倒くせえな、言うことなんて聞いてやるかよ。」と言いつつ、自分なりに学べることは学ぼうとするタイプだ。なので、一対一とかになって真剣に会話すると、意外に話せたりする。そして意外に適当ながらも話を聞いていたりして、長い目で見れば成長するタイプだったりする。しかも常識に捉われない独自の考え方を持つので、時と場合によってはあっと驚く意外なモノを生み出すことがある。

そして1のようなタイプは、完全に嫌われ、はみ出し者にされて、脚光を浴びることが無い。それでも、突出して何か秀でた能力があれば別だが、大抵は性格の歪んだ者が教育者となってしまったが為に、本来凄まじいポテンシャルを持つ1の才能は、いとも簡単に潰されてしまうのだ。

学ぶというのはまず疑問を持つことから始まる。こんなことは古代ギリシャの哲学者も東洋の思想家も、太古の昔から現代の継承者までが皆口を酸っぱくして言っていることだ。

「何故?」「どうして?」「それは本当のこと?」「自分はこう思うが」

これこそが、学びの原点となるのだが、悲しいかな、こういう人間は嫌われてしまう。疑問を抱き、質問し、場合によっては自分の意見をはっきりと主張すると、大抵の教育者は、この質問を完全にシャットアウトしてしまい「いちいちうるさいな!とにかくそう決まってるの!」と怒鳴り返して、無理矢理言うことを聞かせようとする。そうすると1タイプは余計混乱し、理解できなくなるわ、他人は信用できなくなるわで、下手をすれば精神的な病気になったりする。

だが!本来最もポテンシャルが高いのはこのタイプだ!わからないことをわからないと言い切り、自分が納得するまで説明を求める。一度納得しても今度は別の疑問が湧き出し、これについて真剣に考える。そして他者に自分の考えを打ち明けて、議論しようとする。

しかし悲しいかな、ここで議論をしても、まともな議論が出来る者は限られている。大体どこかで話の筋や軸がずれてしまい、皆言いたいことを言いたいように言うだけになり、しまいにはお互いにお互いの意見を否定し合うだけか、罵り合うだけかになってしまう。

そして1タイプはここでもまた混乱し、理解から遠ざかることになってしまう。理屈タイプを救え!奴は天才かも知れんのだ!尤も、本当に理屈っぽいだけの頭でっかちになってしまう可能性もあるが。

教育者が未熟だからこういうことになるのだろう。まずは相手の意見に耳を傾け、真剣に話を聞こう。そして一度は無条件に完全に受け入れよう。そうすれば、相手は喜び意欲が沸く。その後、自分はこういう風に考えているのだけど、どう思う?と質問しよう。そして真剣に議論しよう。決して熱くなってはいけない。もしどちらかが、無限遡行や悪魔の証明を求めだしたら、お互いに確認しあって、それを回避しよう。そして良い着地点を見つけて、お互いに納得し合えば、お互いによい学びとなる。

何よりやはり、「対等になる」ことが大事だろう。「おれは教育者でこいつは見習い」みたいに上下の関係にしてしまうと、どちらも学べなくなってしまうのだ。お互い尊敬し合い、信頼し合い、お互い学び合う。このように対等にならなければ、教育者というものは務まらない。特にこれからの教育はそのようになっていくべきだろう。

偉そうで怖い教師が腕を組みながらビシバシ詰め込む教育は、何も考えずに言われたことをやるだけの貧弱な奴隷を生む。そんな奴隷は、AIや機械で代替できるようになっていくので、もはや必要ないし、何より文明としても高度とは言えないだろう。

時代遅れな「教育」は辞めて「学育」を始めようではありませんか。

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