論理と止揚

たまに、何でもかんでも論理的思考を用いようとする人が居るが、普段からロジカルに考えることが知的であるかと言うと答えはノーだ。恋人とラブなご休憩ご宿泊の場所のベッドまで来て突然少子化問題について語る人は居ないだろう。

ましてやお楽しみの最中に「忌々しき社会問題に対処するためにもラバーキャップ、ぴるぴるは用いるべきではないだろう。」と言いながら人差し指と中指でインテリメガネをくいっと押し上げるような人はまず居ないと思う。

日常会話で談笑中に突然「その発言は客観性に欠けると思います。」などと言い出す人が居たら、その人とは今後一切リラックスしたい時に話そうとは思わなくなるだろう。

ロジカルな思考とファジーな思考は常に使い分ける必要がある。時と場合によってはロジカルとファジーを同時進行するべき時さえある。真面目な話をしている時も、緊張感をほぐすためにジョークを混ぜたりした方が伝わりやすいからだ。常に堅いと疲れて来て聞く気が失せる。

なんらかの組織的行動の中で発生した非日常的な問題に対処する時、或いは何か新しい物を生み出す時、そしてそれらの為の議論をする時。はっきり言ってこれ以外に論理的思考は要らない。

仕事やお勉強や試験等も殆どが決まったことの繰り返しであるか、きちんとした法則や公式、手順に則れば良く、論理的思考なんてしてたら能率が悪すぎるため、ファジーな思考と詰め込んだ記憶と経験で対処することになるだろう。

そして論理的思考を用いて議論をするにしても、自分の言いたいことだけ言って相手の意見も受け付けないなら、それはもうただの水の掛け合いであり、議論の意味がない。

自身の持論に確信があって、敢えて議論する場合、アウフェーベン(止揚)を行って精度を高め、テーゼとアンチテーゼの融合による更なる建設性を求めるのが賢明と言えるだろう。ディベートにせよディスカッションにせよ、アウフェーベンを行うことは、議論の円滑な進行を図れる上、参加者の知識、能力の向上、意欲の向上まで図れ、更に団結力や信頼関係まで強く出来るという優れものだ。

止揚は、「あるものをそのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生かすこと」「矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること」という意味を有する[1]
ドイツ語の aufheben には、廃棄する・否定するという意味と保存する・高めるという二様の意味があり、ヘーゲルはこの言葉を用いて弁証法的発展を説明した(ヘーゲル弁証法)。古いものが否定されて新しいものが現れる際、古いものが全面的に捨て去られるのでなく、古いものが持っている内容のうち積極的な要素が新しく高い段階として保持される。
このように、弁証法では、否定を発展の契機としてとらえており、のちに弁証法的唯物論が登場すると、「否定の否定の法則」あるいは「らせん的発展」として自然や社会・思考の発展の過程で広く作用していると唱えられるようになった。

wikipedia 止揚

ただ自分の意見を主張するだけして、相手の意見は否定する、そして自分の考えだけを相手に押し付けようとする。これはただの洗脳、あるいは従属の要求だ。会話、話し合い、議論でするものではなく、演説で行った方が良いだろう。自身の主張に対する数学的なエビデンスを掲載して論文を書いて学会なり何なりに提出するのも良い。

議論には前提や禁止事項を設けて、しかも主張や反論の論点がずれてしまわないようにしないといけないが、それ以上に考えなくてはならないのが、何の為に議論をしているのか、ということだ。議論は主張やテーゼの穴を埋めたり、更なる理論の向上を目的としているはずだ。そう考えると、議論には止揚が不可欠と言えるのではないだろうか。

ちなみに案の可否を決めるのは採決であって議論ではないのでごちゃ混ぜにしないように注意しよう。


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