他者を裁いているとき、あなたは自らを裁いているのだ。

今回もまたまた、聖書からの引用です。

人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。

あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。

兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。

偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。

マタイによる福音書‬ ‭7章1~5‬ ‭節

お互いに対し意見を述べたり、お互いの意見に対し反論したり異論を述べたりするのは当然良いことと言えます。それは当記事「整合性のチェック」でも述べている通り、誤解、誤謬、バイアスのチェックを行う際に有効であるからです。

しかしここで注意しなくてはならないのは、それが批判になった時、人は自らの内に野獣を飼ってしまうのです。

これは何もイエスとクリスチャンのみの結論ではなく、反キリストの代表格であるフリードリヒ・ニーチェも同じことを述べています。

怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。

ニーチェ著「善悪の彼岸」

個人を裁いたところで何も変わらないのです。そして個人が他者を自らの主観で裁いた時、その人もまた自らの裁きによって裁かれるのです。

法定速度を守らない人を追い掛け回して、お前は間違っている、法定速度を守れ、と言った時、そう主張する者もまた、法定速度を破っています。法定速度を破らないと法定速度を破った人に追いつきませんから。

お前はバカだ、と言った時、そう主張するものも賢明とは言えないでしょう。人は馬鹿にされると悲しみ、怒ります。その結果バカと主張した者を嫌い、憎み、信頼することはなくなるでしょう。

とはいえ、社会が定めた法に反する者がいたならば、裁かなくてはなりませんが、その者を裁くのは法でなくてはならず、人が自らの主観のみで裁いてはならないのです。

こう聞くと多くの人は、法は人が定めたのだから、法で裁くことは人が裁くことと同じだ、と反論されることでしょう。

確かに理屈で考えればそれは正しい。そういう言葉遊びを戒める為に人は神を絶対とする考え方を作りました。

現代こそ精神性や社会性、教育の水準が上がった為に、ニーチェの言うところの「神は死んだ」が適用できますが、文明が未発達であったモーセの時代には、もはや絶対の神でも定義しない限り、人という獣を制御することは不可能だったのでしょう。

絶対は人を管理する為に創られた概念であり、現段階では社会を維持するためには、法を順守することは絶対でなくてはならないのです。尤も、すべての人が自らを律することが出来るようになるなら絶対は必要なく、それが理想的ですが、それはかなり難しく、そもそも、そうできたと仮定しても、人がその域に達するには教育が必要不可欠であり、教育とは、法を伝えるものと言って差し支えないでしょう。

人が自らを律するようになれたなら法は必要無い、というのは実は矛盾しており、法があるから人は学ぶことができ、自らを律することができるようになれるのです。法と言うものが人を制限するものと考えがちですが、法は教育のためのものでもあり、教育は人を豊かにし、自由を与えます。

神や絶対は、法の正当性を主張するのに必要な概念であり、決して軽んじて良いものではありません。何故なら自然界には絶対というものは存在せず、すべてが相対であるからです。すべてが相対であるなら、法を守るということに対して物申し、自分の好き勝手に暴れるという暴挙を許してしまうことになります。

しかし人間は実に優れたことに、ありもしないものを定義することが出来るという凄まじい能力を獲得しているのです。ありもしないものを定義する、これは直感的に聞くと愚かしそうに感じますが、法、学問、科学といったものは、ありもしないものを定義しなくては成立しないのです。

数学が良い例でしょう。数字や図形などというものはこの世に実在しません。りんご一個は文字通り、一個のりんごですが、りんごを構成する分子は途轍もない数含まれており、またりんごは永遠に同じ姿を保持することは不可能であり、真っ二つに切れば、その一個だったりんごは二個になります。エントロピーの法則により、真っ二つに切ったりんごや、腐敗したりんごを元の一個のりんごに戻すことは不可能に近いです。

正三角形は数学上存在する概念ですが、自然界には存在し得ません。見た目が三角形のものであっても不等な数値がどこかに現れます。

そして数字とは定義をしない限りに於いてあり得ない存在です。理論上、0と1の間に無数の数があるため、前提を定義しない限りに於いて正当性を主張することが不可能に近いです。

くどいようですが、法を順守するということを人に伝えるためには、絶対という概念が必要になってきます。そして、ありもしない絶対を伝えるためには、神という存在が必要になってきます。何故なら自然界には絶対が存在しないため、絶対の定義には絶対の存在が必要だからです。

随分話がそれてしまいましたが、個人を裁いても何も変わらないということはどういうことかというと、喩えばレジ打ちの仕事があって、誰かが失敗して記録上の金額と実際にレジの中に入っているお金の金額に乖離があった場合、この失敗の原因を個人の能力に求めて個人を責めた場合、同じような失敗を他の人が起こす、ということです。何故そう言い切れるかと言うと、その人もそれ以外の人も、同じ不完全性を持つ人間だからです。

ではどうすれば良いか、同じ失敗を繰り返さないように確認作業を増やす、マニュアルを徹底する、また現代の技術であれば自動精算機を導入するという手もあります。

これが、失敗の原因と責任を個人に求めるのではなく、社会に求めるということです。

人間は社会的な生き物ですから、何も一人で解決しなければいけないことは無いのです。というか不可能です。

赤ん坊に教育を施さずに自分の力で生きろと言っても不可能な話で、社会が責任を持って育成しなければなりません。

当然、育児をその子の親にのみ押し付けることは非合理的であり、育児専門の保育士に任せることも出来れば、その経済力がなくとも赤ちゃんポストを利用するなどして社会に責任を分担してもらうことができます。

そんな不完全で未完成で欠陥と自己矛盾を多く含み、主観で見ればバイアスがかかる愚かな人間が、他者を裁いても、そんなものは争いのもとにしかなりません。

それゆえ人と人が手を取り、社会を形成し、絶対を定義して法を整備することによって、不完全性を可能な限り補います。だから、社会は法によって成立させて、人は法によって管理され、裁かれなくてはなりません。人治ではなく法治を。

愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。

聖書 ローマ人への手紙 12章19節

キリスト教の教えは何も、黙って神を信じろ、信じる者は救われる、と言いたいわけではなく、人が不完全であることを伝えているのです。

神は存在しない、絶対は存在しない、すべては相対である、だから人を完全な者とすれば法は必要ない。教育は人を完全なものとする。

これは一見正当性があるように見えますが、教育がそもそも法を伝えるものであり、倫理観、道徳観念は法によってしか定義され得ないものです。何故なら倫理も道徳も、哲学的思想も科学も、自然界には存在しないもので、ありもしないものを人が定義して生まれたからです。

そもそも人が完全な者になれるなら、人が絶対になり、絶対は有り得ないものなのに、存在してしまうことになる、これは矛盾しています。

法が人の定めたものだから人の主観であり、絶対ではない。

それはその通りです。ですから都度人が集まって話し合い、修正を加えていく必要があります。

人が集まればそれが社会になり、集まって多数の意見を集約すればそれが法となり、法が人を育み、不完全性を補います。

それでも完全となり得ないため、完全の見本として神を定義し、人に完全性を示す。神が実在するかどうかばかり気にして、教えの意味を考えないから人は自らの主観のみで人を裁くという浅はかな考えに到達してしまうのです。

裁判官が可能な限り判例を考慮して前例踏襲主義になりがちなのも、個人的な裁きにならないようにするためです。
判例自体も確かに裁判官による裁きなので、人が裁いてるじゃないか、と言うことになりますが、そのための判断として法があります。そして、判断材料として被告人の心理状態や動機、原告人と被告人の関係性、証人や弁護士による主張があります。

自らが人を裁くのではなく、裁きは社会に委ねましょう。

社会に従った結果人が間違うなら、人を責めずに社会を責めましょう。そして皆で話し合って意見を集約して考え、社会を正しましょう。


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