学習における彼岸と此岸
皆さんどうも。今日は学習には二種類あるというお話をしたいと思います。
学習には彼岸型と此岸型があります。いきなり勝手な造語を使ってしまいましたが、単純な話、他者が書いた書籍や著作物等、あるいは教師や先達者の口頭説明、説教、授業によって間接的に学習するものが彼岸型学習、自ら実体験して学習するものが此岸型学習となります。
数学で表わすと、公式や計算方法や解き方や、文章問題であればその正しい解釈方法などを学ぶことが彼岸型学習となり、実際に計算してみるのが此岸型学習となります。
まあこう聞いて明らかなとおり、彼岸型学習は比較的簡単であり、はっきり言ってこれで学べたとは到底言えません。実際に問題に立ち向かって、自ら彼岸型学習で得た知識を活用して解決しなくては、本当に学んだことにはならないのです。当然ですね、ぼくは公式を知っている、と言いながら全然計算できないのでは話になりません。
しかし何故か人間、彼岸型学習をしただけで、学んだ、悟った、などと言う人が多いです。何故彼岸、此岸という表現をしたかというと、「対岸の火事」の比喩表現を利用して、実体験による経験と、ただ知識を得るだけの違いを説明するためです。
要するに、対岸が燃えていて、人々が叫びながら逃げまどうのを見て、その熱さをいくら想像したところで、実際に炎に包まれた人の苦痛を感じることは出来ませんし、発生した火事に対する実体験を得ることもできません。彼岸の炎の中からやっとのことで逃げ出して此岸に避難してきた人に対して、此岸に居た者が「君は火事に対する知識が無すぎる。ぼくなら火事にもっとうまく対応できる。」などと言っても、彼岸に居た者からすれば「口だけなら何とでも言える、実際に炎に巻かれてから言え。」としか思いません。
しかし人の中には、彼岸型学習をしただけで、もうすべてを悟ったかのようになる人も居ます。経験が浅く未熟な人間ほど、口先ばかりで自分で何かをしようとはしません。
たとえば戦争は悪だ、今すぐ辞めるべきだ。と訴えながら、戦争を始めた人のところに直接行って直談判をするなどはしません。
事故の被害者は可哀想だ、と言いながら被害者の支援をするようなことをしようとはしません。
ブラック企業のやり方には断固反対する、とか言いながら、組合に参加する、或いは自ら先頭に立って抗議活動をするということはしません。
いじめやパワハラはダメだ、とか言いながら、それらに対する具体的な対策を考えもせず、被害者を憐れむような言葉や、加害者を叩くような発言を、当人たちとは無関係な場所で話したり、どこかの掲示板かSNSに書き込むだけ、だったりします。
教育を改革すべきだ、と立派なことを宣いながら、その手段や方法を述べもせず、ただただ教育者や教育機関あるいは政府に文句を言うばかりで、自ら率先して教育の模範者となることをしません。
やりもしないで口先ばかりで立派なことを宣うだけなので、誰も相手にしないわけですが、本人は何故か神にでもなったかのように、すべての事を経験したつもりになっています。こういう人物を、彼岸型人間と名付けました。
一方で此岸型人間は自ら渦中に入り込み、問題を解決する糸口を手探りで探しながら、解決していきます。そういう人は、あまり口や文章でどうすべきだこうすべきだ、等とは言わず、実際にやってみせます。そして、後世に伝えるべきだと思えば、経験を踏まえた上で実際に自分が行ったことをわかりやすく伝えることをし、ただ遠くから見たことをあたかも自分が経験してきたかのように語るようなことはしません。経験していないものを理解することは出来ないとわかっているからです。
口先だけの人間にはならないようにしたいものですね・・・・・・。
以上、学習の彼岸と此岸についてでした。
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