矛盾していても良い
どうも皆さん。
突然無茶苦茶なタイトルにしてしまいましたが、言うことも行動することも万物も、実は矛盾していても良いのではないかと思い始めました。
なんか、矛盾していてはいけない、理路整然としていなければいけない、何となくふわっと、そういう風に決めつけてぼくたちは生きている、でもよくよく考えれば、それも所詮は概念であり、縛られているに過ぎないかもしれません。
どうせエントロピーは増大し続けているわけで、人間もその系の一形態に過ぎないわけで、何をしようと何をするまいと、別に変らないのだから変えようとする必要は無い。そもそも変えるのは不可能だし、可能だとしても一人の人間に変えられるエネルギーなんてたかが知れています。
人が寄り集まれば生まれるエネルギーも大きいですが、それでも地軸の傾きやプレートの変形、地球の核から宇宙空間までの対流、太陽系から地球へのエネルギー、地球から太陽系へのエネルギーから比較すれば、まったく物の数になっていません。
だから言うこともやることも万物もすべて矛盾していて良い。まったくの自由だったのです。
自分が何を求めているか、それに忠実であれば自然と物事がうまくいくように出来ています。お腹がすいた、食べよう。喉が渇いた、飲もう。承認が欲しい、人と付き合おう。愛が欲しい、人と語り合おう。人と繋がろう。
人が何かを発言していたり、何か行動しているのを見て、一々それに反応して心の中に何か腑に落ちない感じがするのは、自分自身に対して何か腑に落ちないところがあるのであって、その対象はまったく関係無かったのです。
正しくないといけない。何故?
矛盾していてはいけない。何故?
争ってはならない。何故?
他人に責任をなすりつけてはいけない。何故?
自分の責任を全うしなければならない。何故?
幸福にならなければならない。何故?
集団に従わなければならない。何故?
すべて、別にどうでも良いことだったのかもしれない。そもそも、「私」というものがあるかどうかも不確かで、もしかしたら脳が機械的に動かしているだけで、自由意思や意識、心すらも実は無いのかもしれない。あったとしても、それに固執、執着しても苦しみが増えるだけなのかもしれない。
赤子は目の前のものが善か悪かなど判断せず、とりあえず近付いて、触って、口に入れて、確かめます。そしてそれを楽しんでいる。そう、子どもはただただ目の前の不確かなものに思考の偏りなく近付いて、触れて、ただ何も考えずに楽しんでいる・・・・・・!
そこには善悪貴賤上下優劣はまったく存在しない!そんなものはすべて自分自身という取るに足らない、宇宙に偶然発生した生ごみが勝手に思い込んで創り出した虚像に過ぎなかったんだ!
自分はただの生ゴミだった!
そして生ゴミごときが、幸せになりたいとか、規律を守るべきだとか、平和になるべきだとかほざいていた!ただそれだけだった!
生ゴミは生ゴミらしく、適当に転がっていつか腐って土に還ればそれで良いのです。だからぼくたちは・・・・・・。
完全に自由なのです!
何をしてもしなくても良い!考えても良いし考えなくても良い!面白おかしければそれで良い!いちいちダルいことなんざしなくても良い!世界にちょっかい出したければそれも良い!だがそれに縛られるな!所詮生ゴミの蠢きでしかない!
いやはや、今年も終わりなので、ここはひとつ何か要らないものを捨てて、有終の美を飾ろうと思います。
というわけでぼくは、自分を捨てようと思います。
なんということだ、ぼくは生ゴミだったんだ!
悲観的でもなく、自虐的でもなく、ルサンチマン的諦観でもなく、自暴自棄でもなく、主観でも客観でもなく、ただ現象として、事実として、事象として、自分はただの生ゴミだったのだ!
ぼくは生ゴミをとっておかずに捨てるようにしているので、自分自身も捨てようと思います。いやあ、どうも変な悪臭がする、うまく言えないけど何か微妙に若干、不快な感じがすると思えば、生ゴミをいつまでもとっておいたからなんですね。
皆さんも断捨離、いかがですか?