仏教の教えについてちょっと考えてみた。

何か眠れないので久々に仏教関係の解説本みたいなの読んでいて、それでも眠れなかったので久々に記事を書こうと思い立って今に到ったのです。

色即是空だとか色不異空だとか、八正道だとか、無無明尽だとか、諸行無常に諸法無我に涅槃寂静だの、何だかんだと色々書かれたり唱えられたりしているけど、結局最終的に言いたいことは、ウパニシャッドから大乗仏教まで一貫して、「私は存在しない」とか「私は認識によって判断されるものではない」とか「とにかく経を唱えて阿弥陀仏だかお釈迦様だか観自在菩薩だかに委ねなさい」みたいなことが書かれてるわけで、つまり何が言いたいかと考えたところ、超単純な四字熟語が出現しました。

それはズバリ「思考停止」です。

多くの事は考えても意味がないということです。すべてとは言いませんけど、でも多分、真理としては、すべてなのかもしれないですけど。

大体生存に必要なことは思考を停止しても身体が欲求するのでやりますし、思考停止したら死ぬわけじゃあないと思いますしね。

明日の事を考えても、明日の事はわからないし、昨日までのことを思い返したところで過去に干渉することはできません。

過去の経験を未来に活かすという発想もありますけど、大体個人の経験はあてにすると裏切られます。(なので組織的に経験を活かす場合には個人や単体の情報を統計的に記録して、できるだけ多くデータを取ってエビデンスを明確にしてマニュアライズします。)

でも何でもかんでも思考停止したんじゃあ、何も生み出せないし、何も発展しないですね。

なので思考するべきものと、思考するべきでないものを分けないといけないです。

そこで指標となるのが、「思考は所詮道具に過ぎない」と言うことです。

科学や数学もまた、ただの道具に過ぎません。数学的エビデンスによって証明された科学的な理論というものは、カール・ポパーが提唱するように、反証可能性を残しているものでないと認められないとされているので、反証できるということは、真理ではないということです。

数学で出された答えが真理とは程遠いということは、古代ギリシャのゼノンのパラドックス(アキレスと亀とか、矢のアレです。)から既に言われていることであって、更にこれは近代にゲーデルによって不完全性定理というもので証明されています。


なので思考とは、人がより生きやすい社会を目指すための道具として使うべきであり、真理や自己実現みたいなことに思考を割くのは、少し考え直した方が良いのかもしれない、ということになります。

もちろん、真理や自己実現をトコトン追及することで幸せになれる人はどんどんやるべきだと思いますけど、もしそれで苦痛を感じるなら、辞めた方が良いでしょうね。本末転倒ってやつです。

ダルい、痛い、キツイ、じゃあそこから逃げよう。腹減った。じゃあご飯を食べよう。気持ちいい、じゃあ続けよう。眠くなった、じゃあ寝よう。

身体の自然な欲求には逆らわない、無駄なことを考えずに感じた通り素直に動く。これが真の思考停止というものです。

大体反射的な動きってのは思考しなくても、やりますんで。多分、やるはず。何か致命的な障害でもない限りは、やるはず。


ダルい、痛い、キツイ、でも逃げるのは良くないことだ、道徳的に考えて云々・・・周囲に迷惑がかかる・・・ここで休むと良くないことが・・・。

腹が減った・・・でも食べると太るかもしれない・・・。

気持ちいいけど・・・快楽ばかり求めていたら堕落してしまう・・・。

こういうのが余計な思考というやつですね。

おまけにこういう考え方って自分を律するだけなら良いのですけど、大抵の場合、他人にも適用しようとするのですよ。


俺はダルくても頑張ってるのに、あいつは楽しやがって・・・悪いやつだ!

あいつデブの癖に食べてばかりだな・・・怠け者だ!

あの人は気持ちいいことばかりしている・・・なんと不埒な人なんだろう!


まあ、必ずしも自分を律する人が他人にも強制すると言うわけではないと思いますけど、こういう風に他人を責めるようになるくらいなら、自分の中にある正義について考え直した方が良いと思います。本末転倒なので。


思考するな!というのもある意味思考なので、ちょいとその辺が、仏教の教えのややこしいとこなんですけどね。

思考するな!思考するな!と考えると思考してしまうので、何も考えずにとりあえず理解できそうもない経を適当に唱えれば、思考停止せざるを得なくなる、ということで、大衆向けに般若心経が用意された・・・という説があるようです。


怒り、恐怖、悲しみといったものは大体、要らん事を思考するから発生するので、そいつを止めるには思考を停止するのが手っ取り早いってことのようです。


喜びとか幸福感ってのは、別に思考しなくても発生するんです。モノアミン類の伝達物質各種が勝手に身体ン中で分泌されて、脳をにゃんにゃんさせて気持ちよくするからです。


もちろん負の感情も外的刺激によって誘発されるのですけど、幸福感と違って必ず思考を媒介するんですね。痛かったり辛かったりしたら、それを何とかしようとしますからね。で、何でそれを何とかしようとするかというと、幸福感を得るためなんですね。

あんまりに苦痛すぎると、そいつを何とかしようと身体が一生懸命モノアミン類をドッパドパ出して対処しようとするくらい、人間は自然と幸福感を得るように活動してるのです。ランナーズハイなんかが典型例ですね。


つうわけで人間はそもそもモノアミン類による幸福感という報酬を目的に生きるように出来てる生物なんで、それに逆らったところで碌な目に遭わないということなんですね。


そんだから辛くなったら思考を停止せよ、というわけなんです。要らんこと考えたら、どんだけモノアミン類が働いて幸福感を得ようとしても、思考が邪魔をして得られなくなって、そんな状態が続くと、鬱や統合失調症といった各種精神障害を罹患する羽目になってしまうわけです。


気が付くと、モノアミン類の分泌バランスが崩れて、幸福感を得るどころの騒ぎじゃなくなってしまうわけですね。

思考はあくまで、人生をより良くするため、社会をより成熟させるために使う道具であり、要らん心配をしたり、固定観念や思い込みに囚われて自分や他人を責めたりして何か正しいことをしている気分に浸るという訳の分からん本末転倒なことをするためにあるのではないと言うことですね。


自分や他人を責めたりして何か正しいことをしている気分に浸る、という点についての補足として、何か問題が起こった時に、誰の責任か、とか言い出したら大体関係者全員碌な目に遭いません。

問題が起こった時には、何故問題が起こったのか、どうすればそれを防げるのかを皆で思考して、同様の問題が発生しないように対処するようにしましょう。問題を起こしてしまった個人に依存するような対処の仕方は、やめましょう。

まあつまり、他者を責めるな、裁くなということですな。大体どこの宗教の教典にも書かれてることですわ。


よく陰謀論者とか、それに毒された人たちが、政界や財界や宗教団体やら、ドコソコの国の誰々大統領やらなんやらかんやらを相手取って、彼らは悪魔だ!打ち倒すべき敵だ!みたいなこと言ってるけど、仮に彼らが本当に悪魔だとして、んなもんいくら倒したって別の人がそのポストに就くわけで、歴史を見ても、誰にとっても都合の良い絶対の神のような支配者が存在した試しも無いので、考えたところで無駄なんですよね。


それよか自分がどうすりゃ幸せになれるか考えた方が良いっす。で、幸せって結局モノアミン類の分泌による脳味噌への快楽報酬なわけだから、素直に欲望に忠実に生きれば良いんですわ。


まぁ~でも他人はどうにもコントロールできないんで、欲求の柱を他人に依拠すると、その他人が自分の思い通りにならないとショックになっちゃうことが多いんで、依存するにしても、特定個人への過度な依存は避けた方が良いですけどねえ。

依存するだけして、思い通りにならなくても平然としていられるなら構わないと思いますけどね。


依存の仕方が暴力の人が居たりするから、単純に依存しても良いよとも言えないですけど。


・・・うん、やっぱ総合的に考えて、他者に依存するのは辞めておいた方が良いかも知れない。


ああでも、キッツい時に助けを求めるのは別に構わないですよ?

それは生存の手段なので、自然な欲求ってもんです。

薬物なんかもちょっと避けた方が良いかもですね。ありゃあ確かに一気に快楽を得られるんだろうけど、その後の反動がヤバいらしいっすからねえ。しかも反動で倦怠感や落ち込む気分になるから余計、あの時の快感が忘れられなくて・・・ってなって悪循環に陥るらしいですからねえ。


以上、仏教の教えって結局は思考停止の四文字で説明付くんじゃない?という個人的な解釈のお話でした。


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