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「Why I'm No Longer Talking to White People About Race」なぜわたしはもう白人に人種について語るのをやめたか I :Reni Eddo-Lodge

I’m no longer engaging with white people on the topic of race. Not all white people, just the vast majority who refuse to accept the legitimacy of structural racism and its symptoms. 

#BlackLivesMatter が世界に広がっている。積んでいた本書はドイツ史関連で研究者が触れていたもので、残念ながら邦訳は出ていない(2020.6月現在)。アフリカ系イギリス人の著者が2014年から書いた同タイトルのブログの書籍化だ。

白人と呼ぶのもわたしは好きではないのだが、黒人、有色人種と呼ばれてきた人たちへの差別に関する話なので、ここでは白人と呼ぶ。本書はBlack lives matters に限定されてはいないため、アジア系についても語られている。「もう話さない」のではなく「話すため」に書かれ、話す気が失せた側の発信をきっかけに、問題に向き合うための本。

どの国にも差別が存在するが、国によって対象が違ったり、表れ方も違う。日本ではマジョリティに属するわたしも西洋社会では差別される側になる。また、差別される側と言ってもアフリカ系、アジア系、アラブ系で差別のされ方も違い、単純ではない。そして、本書のタイトルには一理もニ理もあるとは思う。

率直に言って、経験上、白人に人種差別の話はほとんど通じない。その人が一個人のわたしを差別するかしないかに関係なく、人種差別をされることを感覚としてつかめないのだなと思う。本書内にも「白人たちは自分の肌の色がもたらした結果」が普遍的なものだと思い込んでいるところがある。普段の何気ない会話の中に、本人は無自覚な、こちらが差別と感じる言葉が出る。なんとなく、下に見られている感じを受けることは日常茶飯事。一回一回がそれほど衝撃的なものでなかったとしても、だんだん積み重なりなんとも言えない無力感を味わうようになる。一所懸命説明するのも疲れる。差別を受けたことを話したり、Covid-19 が広がり始めたときに感じたアジア人差別への不安や恐怖心を口にしても、わりとあっけらかんと「別に殺されるわけでもないから大丈夫」と言われ、伝わらないからもういいです、と諦めてしまった。そういうことじゃなくて、と話せばよかったのだろうけど、あのときはそんな気にもなれなかった。海外在住者でたまに「差別を受けたことがない」という人がいるが、現地の人と交流がないか、現地の言葉をほとんど使わず暮らしているか、よほど鈍感なだけ。

日本でBlack Lives Matterを語るなら、日本における差別にも目を向けなければいけない。自覚なく差別的発言をする人が多いし、自覚して差別する人もあふれんばかり。この問題をどうにもできずに、何も語らずに、他国における差別だけを問題視するわけにはいかない。それも大切、自国のことも大切。

被差別者が傷つけられても訴え続けないと何も変わらないことを変えなきゃいけない。先日アフリカ系アメリカ人が「これは白人の問題だ」と言っていて、本当にその通りと思った。差別問題は差別する側の問題であり、社会の構造の問題だ。国のシステム自体、法律自体に差別が存在している。それは差別する側が作ったものだ。アメリカのアフリカ系の人たちの差別との闘いはアメリカができた時からあり、アメリカができるときには先住民が差別され殺された。何度差別に抗う運動が起きても改善しない。公然と差別発言をする人が大統領になってしまった。その他の国々でも民族国家主義が強まり、宗教対立も絡んで差別は常に存在し、国内外の問題と呼応して激しくなってきている。日本もなにかというと特定の国や民族を攻撃することは増えるばかり。政府や自治体、メディアも歴史の改ざんや差別を煽っている。

人間は集団になると平気で人を傷つけ、差別しやすくなる。でも、個人、一人一人がやめることはできる。自分の考えや感覚やふとした発言に差別的なことがないか、気づくこと、直すことから始めたい。

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春野風子
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