被害者意識から抜け出したら対極の加害者意識側に一氣に振り切れて。自虐の末に得たもの
被害者意識が死んでの、その後
被害者の対極である加害者側に意識が振り切れてしまう、ということが起こりました。
(被害者意識が死んだ話はこちら)
この記事では、なぜそのようなことが起こったのか、
被害者意識が恨む相手に怒りを向けることで生きる目的を見いだし続けるものならば、加害者意識とはどのようなものなのか、
被害者でも加害者でもない当事者を生きるとはどういう状態なのか
など、この体験から氣付いたことを書きました。
感情ドラマから抜け出し、被害者意識が死ぬという体験をして以来、
これまで『被害者目線』で見ていた相手やものごとが
まったく違うものに見え始め、
「本当はじぶんが加害者だった」
ということを強烈に自覚させられたのでした。
被害者と加害者は二極の世界のこっちとあっち。
被害者意識から抜けたことで
シーソーの片方に誰もいなくなって
もう片方に一氣に全重量がのしかかったかのように
加害者側にストンと振り切れてしまいました。
「わたしは被害者を決め込んでいたけれど、本当は加害者だったんだ」
「まわりの人を苦しめていたのはわたしだったんだ」
過去のあらゆるできごとについて、
『加害者目線での焼き直し』が起こったのです。
やがて胸を刺すような感情が渦巻き始め、
被害者でいたときとはまったく違う苦しさを味わいました。
被害者は相手を責めますが、加害者はじぶんを責めるのです。
被害者意識は相手を恨んで怒りを向け続けることで
存在する目的を見出すのに対して
加害者意識はじぶんを責め、打ちのめし、痛めつけ、
その苦しみによって自らのやる氣をそぎ取り、生きる氣力を奪っていくのです。
「こんなわたしなんか…」
という自虐の感情ドラマを創り出し
罪をつぐない続けようとすることで存在する目的を見出すのが加害者意識なのではないかと思います。
加害者意識を持ち続けていると
人生が罪滅ぼしで終わってしまいかねない
ということですよね。
それだけにとどまらず
わたしが加害者で居続けることで
ずっと相手を被害者にし続ける
ということになってしまうのです。
相手を今この瞬間もずっと
『わたしにひどい目に遭わされている被害者』たらしてめているのは
ほかでもない わたし。
加害者意識を持ち続けることで
じぶん自身を責めるような現実を創り出すだけでなく、
苦しむ相手をも創り続けてしまうのです。
このことに思い至ったとき
相手にもわたし自身にも申し訳ない思いでいっぱいになり
「もういかげん、被害者意識も加害者意識も手放そう」
そう強く思いました。
相手に心からのお詫びをしたら、じぶん自身を赦す
これがどんなに大事かということに
痛いほど氣付かされたのでした。
こうして加害者のわたしを受け容れ手放そうと試みたとき
ふっとある記憶が立ち上がってきました。
それはどっぷりと被害者目線でいた頃に
「傷つけられた」
「屈辱を受けた」
そう強く感じた あるできごとの光景でした。
そのできごとの状況を改めて思い返してみると、
「そりゃ、相手はそうするわ」
相手にはそれをするだけの理由があったことに氣が付き、
被害者目線で見ていた頃にはまったく慮れなかった相手の立場や心情に思い至ったのです。
わたしがどれほど自分勝手で思いやりに欠けていたのかに氣付かずにはおれず
心からのお詫びが湧いて泣きました。
そうして湧いてくるに任せてお詫びし続けていたら、
視点が切り替わったかのように
こう思ったのです。
「ただ、そうだっただけかも」
被害者目線や加害者目線で見ていようと見ていまいと
このできごとはただの事実として起こっていただろう、と。
それをどう解釈するか、ただそれだけのことで。
被害者、加害者どちらの側も体験し、感じて受け容れたことで
真実は、それが起こったという事実があるだけ。
被害者も加害者もわたしが創りだした幻想で、そもそもなかった
ということが腑に落ちたのでした。
『当事者として生きる』というのはこういうことなのだ
ということがようやく理解でき、
被害者でも加害者でもない『わたしの真ん中』に戻ることができました。
わたしが加害者意識に苛まれていたとき
ある人が「和する」ということを教えてくださいました。
また別の人が「調和」ということを教えてくださいました。
当事者として生きるとは
二極を受け容れ
調和して真ん中を生きること、
さらに真ん中を太く高くしていくことなのですね。
また、被害者意識によって
こんなにもじぶん一人ぼっちの盲目の世界を創り上げているということ、
そして加害者意識によって
じぶんを痛めつけ、罪を償うための人生を送ってしまいかねないこともわかりました。
被害者意識も加害者意識も
氣付いて感じて受け容れて手放すほどに
そもそもそれがなかった現実にシフトしていくことができるのです。
それは
今が変わるだけでなく、
同時に過去も未来も書き換わるということでもあります。
一連の体験によって
以前はいつもあった心の重さやモヤモヤした感じがなくなり、
心だけでなく、身体そのものが氣体に近づいたかのように軽いのです。
じぶんを諦めずに向き合い続けてきて
本当によかったと心から思います。
じぶんに向き合うのはしんどいことのように思われるかもしれませんが、
思考と感情を拾い上げ続けていると
より高い視点からあなた自身を見つめることができるようになるので,
感情に振り回されることも減り
氣付いて手放せるまでに掛かる時間も短くなり
いつの間にか当たり前にじぶんに向き合えるようになっていきます。
対極の意識に振り切れたことで、
意識の世界もバランスだということを改めて思い知りました。
被害者意識だけ、加害者意識だけ
ということはあり得ず、
片方がある以上はもう片方もある。
どちらもあって、そもそもどちらもない。
どちらをも受け容れることで調和が訪れるのですね。
清濁併せ呑んで
調和して生きてこその
たましいどおりに生きる
なのだと知ることができたありがたく貴重な体験でした。
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