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ひとは生まれ変われる。感情ドラマと被害者意識から抜け出したときのこと〈前編〉

この記事はひと月半ほど前に起きた、わたしにとって意識の大転換ともいえる出来事について書いています。
数多の出来事とそれによる氣づきの積み重ねの末に起きたことなので、何をどこから書けばよいのか思案しましたが、どんなことが起こりどう変化したのか、感情ドラマや被害者意識から抜けるとはどういうことなのか、ということを中心にお伝えしたいと思います。
端折っても長くなったので (笑)、まずは前編をどうぞ。

昨年の初めに自営業を手放して就職し、これまでとはまったく違った環境に身を置いたことで、
無限に広がる意識の世界の、今まで光が届かなかった場所に光が当たり、新たにそこに向き合うことになりました。

入社した当初は
「もうじゅうぶんに内観したから、この会社で余生を送ろう」
などと思いあがっていたのですが、さらなる修行になろうとは思ってもみませんでした (笑)

就職してからのこの一年と数か月の氣づきと内面の変化は、それ以前の数年分に相当するものでした。

今から三か月ほど前、わけもなく落ち込んで、どうしようもない虚しさでいっぱいになっているわたしがいました。

この虚しさは思い返せば今に始まったことではなく
たぶん子ども時代からずっと心のどこかにいつも横たわって、そこはかとなくあったものです。

ある朝、通勤中の道すがらでその虚しさを、わたしの世界のすべてが暗雲で覆い隠されてしまったかのごとく、ありありと感じてしまったのです。

どうしていいかわからなくなり、咄嗟にたましいの学びをともにしている心友にメッセージしていました。

彼女から「たましいが開いたんじゃない?」という返事をもらい、ようやく理解しました。

そうか。
たましいどおりに生きてこなかったから、ずっと虚しかったんだ、と。

わたしは子どもの頃から
生きてるけど生きてる感じがしないような、
幸せの絶頂といえるような状態にいてもどこか白けているじぶんを感じているような、
楽しいことをしているのに楽しめないどころか早く終わってほしい、と思ってしまうような、
そんなところがありました。
それがわたしにとって大きな悩みでした。

何が楽しいのか、今を楽しむってどういうことなのか、
じぶんが本当はどうしたいのか、何を感じているのかわからずに40歳を過ぎるまで生きてきたのです。

ずっと、虚しさの中で生きてきたことを、このとき初めて自覚しました。

もう降参しよう。
過去の回収作業はもうじゅうぶんにやったよ。
もう過去に縛られずに生きよう。
これからは今を生きる!
あとはたましいに任せよう。
執着を手放して委ねよう。

そう決めました。

そうしたら、
今まで好きだと思っていたもの
じぶんにとって重要と思えていたものが
なんだかどうでもよくなってしまい、
全部手放したくなったのです。

それで、子ども時代にもらった賞状、卒業証書、文集
学生時代から大事にしてきた好きなアーティストの図録
好きな作家の本
旅人時代の思い出の品々など
思い切って手放してしまいました。
もともとまめに物を捨てるほうなので、
手元に残っているものはほぼ厳選された物たちでした。
それらの多くをさらに捨てました。
それから分厚い昭和なアルバムや箱入りのポケットアルバムに貼った写真も一部を残して整理することにも着手し始めました。

このとき、なぜかわからないけれど
「いつ死ぬかわからないから、身辺整理しておかなきゃ」
そんな義務感のようなものを漠然と抱えながら作業していました。
なんとなく、もうすぐ死ぬんじゃないか、という氣がしていたのです。

大断捨離してスッキリした頃、
両親に対して持っていた心の奥底の本音にようやく氣づけたり、
『愛着』を育て直してわたし自身の中に『安全基地』を創ることもできました。

そうして、わたしが「本当は愛されていたんだ」ということに氣づけば氣づくほどに、いかにわたしが
『被害者目線で世の中を見ていたのか』
ということにも氣づがざるを得なくなりました。

「わたしって惨めだなぁ」というのが若い頃からの思い癖でしたが
そんな惨めな氣持ちにさせていたのは、ほかでもないわたし自身だったのだということに、あるできごとをきっかけに強烈に氣づかされました。

そのときに
「もう絶対にわたしを不幸にしないから!」
「これからはわたしはわたしを幸せにする選択しかしない!」
そうかたく心に誓いました。

にもかかわらず
わたしを幸せにしない選択だとわかっていても、
何度手放そうとしても、どうしても執着してしまうことが一つだけありました。
それはもう、「誰かがわたしに魔術でも掛けているんじゃないのか」と真剣に思うくらいに (笑)

あれ?
これ自体が被害者意識ちゃう?

あぁ、こうやってわたしがわたしを被害者のままで居続けるように縛りつけてるんだ!

そこにようやく思い至ったのです。

と同時に
『感情の渦』の中でもがいているわたしのイメージが頭の中にパンっと浮かんだのです。

これが感情ドラマってやつか!!!!!!!!

それはまるでブラックホールのように、わたしを引きもうとしていました。
その渦から意を決して「えい!」と抜け出したのです。

これが
『わたし』と『感情』を切り離した瞬間でした。

感情がなくなったわけではなく、
感情が『わたし自身』ではなく『わたしの一部分』になったのです。

糸の先に5円玉を結び付けた振り子を想像してみてください。
糸の先の5円玉のように
あっちに振れたりこっちに振れたりするのが感情です。

5円玉に掴まって、その振れに振り回されているのが
『感情ドラマ』の中にいるあなた自身です。

かたや、5円玉の反対側の糸の端っこ
すなわち振り子の支点をつまんでいるのは誰なのでしょう。

振り子の先ではなく振り子の支点のその向こうにいるのも
あなた、なのです。
そこに意識を向けることができたとき
感情に振り回されることがなくなる。
感情ドラマから抜け出すとは、そんなイメージです。


感情ドラマから抜け出せたことで、
どうしても手放せず執着していたことも
不思議なくらいどうでもよくなりました。

また、これまで誰かのせいや何かのせいにして生きてきたことすべてを
わたしが創ってきたのだということを、認めざるを得なくなりました。

もはや言い逃れできない…


体調不良で二日間寝込んだのはそんなときでした。

後編に続きます。

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