平坦にならし、個性を浮き上がらせる
個性とは何か?
それを考える上でとても印象的であったエピソードを3つご紹介します。
【書道家・柿沼康二さんの場合】
10年以上前のテレビ番組の中で、書道家・柿沼康二さんが語っておられた話です。
柿沼さんが毎日実践されている事として、臨書(お手本を模倣して書を書く)というものがあるそうです。
ひたすらお手本の書を模倣する。
つまり限りなく自分というもの抑えて、お手本のコピーを試みる。
それでも、自然と自分の癖が作品に見染み出てしまう。
それこそが個性であると。
テレビを観ながら「面白い考え方だな」と思わず呟いていましたし、時間が経っても強く印象に残っています。
【中田ヤスタカさんとperfumeの場合】
これも10年以上前に、朝の情報番組でperfumeのプロデューサーである中田ヤスタカさんがインタビューで語っておられた事です。
レコーディングの際、perfumeの3人には一切の感情を排除し、無感情で歌唱させるのです。
ディーヴァ(歌姫)の様に歌い上げる事を禁止し、抑揚を抑えてまるでロボットの様に。
それでもやはり3人それぞれの癖・特徴みたいなものが、自然と歌にのってくる。
それこそが個性だと。
書道と音楽という異なる分野にも関わらず、個性に対して非常に似たアプローチをしていて、この考え方はさらに私の中に深く刻み込まれます。
【濱口竜介監督の場合】
そしてこの考え方は、世の中の真理みたいなものではないのか。
そう決定的に私に思わせてくれたのが、「ドライブ・マイ・カー」で米国アカデミー賞で外国語映画賞を受賞された濱口竜介監督の演出方法です。
濱口監督は出演者の本読みの段階では感情を排除し、台詞を棒読みで繰り返し読む事で、体に覚えさせるのです。
(この演出方法自体はフランスの映画監督、ジャン・ルノワール氏の演技指導に関するドキュメンタリー映画を見て、取り入れたそうです)
棒読みで染み込ませた台詞を本番で初めて自分を開放する事によって、自らの中から自然に、役としての感情が溢れ出てくる事を狙ってのものではないのかと思われます。
(ここに関しては私の推測になります)
つまり、一旦自分を抑えて台詞と向き合う事で、後から自然と出てくるものを大切にするという考え方においては、前述の2つと非常に近いのではと思うわけです。
本番で自然と出てくるものが、役としての個性なのかなと。
3回も同じ様な考え方と出会うと、無理にでも自分の生活の中にも取り入れられないかと思うわけです。
そうして試みているのが、瞑想です。
私は専門家ではないので、瞑想の具体的な実践方法を示す事はしませんが、私流ですと
・目を閉じ、あぐらを組む
・深く呼吸をする(鼻から吸って口からゆっくり吐き出す)
・何も考えず、無になる
この様に実践しています。
そこで生きてくるのが上記3つの考え方です。無になろうと試みても、自然と浮かんできてしまう人物や物事。(一般には雑念と呼ばれるもの)
それこそが本当に大切にすべきものではないのかと。
というかなり強引な結びつけです・・・。
しかし、これだけ強烈に印象に残った考え方を
「その考え方、面白いな」
で終わらせてしまうのは、惜しいものです。
この考え方を実生活と結びつけ、何とかアウトプットしようと試みる私の実験は続きます。