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「ロックンロールミシン」鈴木清剛著。

 僕がJ文学に傾倒し始めたとき、時の人として輝いていたのが鈴木清剛氏だった。しかし、この作品は映画しか見たことがなく、ずっと読みたいと思っていたものを、五十路半ばにしてようやく読んだ。
 やはり、僕の純文学の原点は、J文学なのだなと思わせるものがあった。瀟洒で美しい小説世界は、僕の若い頃からの憧れであった。描かれている小説世界に行ってみたくなる魅力のある文学なのだ。
 もともと、凌一が金髪だったり刺青をしたりのパンクじみた人格である所為か、ロックンロールミシンというのは、ロックミシンと掛けた凌一の裁縫人生を示したもののように思われるのだが、原価を考えずに好きな服を作る精神は、確かにロックじみている。しかし、クライマックスで制作した衣服を全部切り裂いてしまうところは、ロックというよりパンクのようなイメージである。最後のフリスビーの場面を見ると、どうも凌一は子供のような性格に見受けられ、ロックというのは若い魂を持っていなくてはできないもので、そのような意味でも子供のような純真なこころを、凌一は持っているのかもしれない。
 しかし、このように成功に向かう筋が挫折するというのは、現代小説のステレオタイプなのだろうか。たとえば、拙著「ジオハープの哀歌」を評して、歌人の黒瀬珂瀾氏は、コンサートホール建造が途中で頓挫した方が小説になる、という意味のことを言った。だから僕のような書き方であれば、展示会に出品できるまでを描くサクセスストーリー的な筋になるのだが、この小説では挫折する。その方が、現実に起こりがちでリアリズムがあるとかいう問題ではない。この小説は、現実に幻滅した人にとっては、ただの夢物語に過ぎないくらい美しいので、そのような否定的で厭世的なリアリズムは必要ないからである。むしろ、ありそうにないことをリアリズムを駆使しして書く方が、僕などは好みである。
 そうではなくて、この凌一のワンマンな拘りが、ロック魂的で表題に合っている。その拘りによる挫折が、いかにもロックンロール風だ。パンクっぽいと上述したが、パンクもまたロックなのである。裁縫という地味な、ことによると女々しい作業をロックするという、異質なものの結びつけによる意外性をリアリスティックに描くことが、この小説の成立契機のように思える。だから、そのアイデアと描かれる世界だけで、充分な魅力があるために、プロットを奇抜にしたり、大衆の眼を惹くようなドギツい描写は必要ないのだ。
 最近の受賞小説が忘れがちの大切なものが、この小説にはある。それは、一にも二にも小説世界の美しさである。凌一と椿とカツオに賢司が加わったストロボ・ラッシュの場の美しさ。それは、日本的情緒に繋がる美しさであり、仄かさや微妙さ、加減などの大きなウエイトを占めるものである。この小説には、派手な設定も激烈な場面も、何も大衆の眼を惹くようなものはないが、そのような優しい美しさが満ちているのである。それは、小説が平和な世界だからこそ、実現できる類のものであり、そこには著者の平和を愛するこころが、隠されていると考えていいと思う。
 小説は、平和だからこそ楽しめる。戦時下では、言語統制されるだけでなく、若者は戦場に赴き、街は戦火に焼かれる。そのような状態では、小説を初めとする芸術は、楽しむことができない。そのような意味で、もっと平和を愛する小説が増えてくれたらと、密かに願うばかりである。

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