人生はマークシートじゃない
僕は共通一次(センター試験の前身)元年の1979年(昭和54年)に大学受験を経験した。
私立文系で、事前に共通一次の模擬試験を受けてはいるものの、マークシート方式のテストを経験したのはその時が初めてだった。
それ以前には国立大学の一期校と二期校があって、それぞれに独自の試験(もちろん記述試験である)が用意されていた。
共通一次試験は1989年(平成元年)まで続き、それ以後「センター試験」という名前に変わり、2021年(令和3年)に今の「大学入学共通テスト」になったという。
日本の学生のための教育課程がどんどん変わり、学習する内容も圧縮(?というよりはむしろ削減か)され、学力の低下が叫ばれながらも、教員の労働条件緩和のためだけに公立学校の完全週休二日制が導入された。「ゆとり教育」という言葉もこの時代に生まれてきたのだ。
40年以上も前と比べると、今の若者たちはあまりにものを知らなさ過ぎるという現状は否めない。
デジタル時代全盛ゆえ映像文化があまりに進展してしまったために、書かれたもの(主に本)を読むこともしなくなった。パソコンやビデオ・ゲームなどに興じていては漢字すら覚えることもできない。まあ、今はAIがあるから漢字を知らなくてもどうにでもなるのだろうが…。
僕が子どもの頃はよく父親に「百科事典を読め」と言われたもの。小学校の入学祝にはたいてい百科事典を買ってもらうというのが習慣化されていたように思う。父が本好きだったのでごく自然に読書をするという習慣が身についていた。
今のような情報過多の時代には、よけいな情報があまりにも多すぎて、何を信じていいのか分からなくなってしまうといった現象も起こるのだろう。
予備校の講師をしている友人がよく言っていたが、センター試験は選択肢をマークするだけの解答方式だから、正解が全く分からなくても偶然に正解にたどり着く可能性ももちろんある。
四択式なら1問25パーセントの確率。確実に正解でない選択肢、恐らく正解ではないであろう選択肢、正解ではないかもしれない選択肢、そういった基準でひとつマークしたとしても正解は正解とみなされる。正解に至るまでの過程は評価されないのがマーク方式。
実際彼が教えていた受験生の中には、地理で「ほとんど分からなかったからカンでマークしました」と言っていたのに、自己採点で9割を越えたという者もいるのである。
「選択式の試験問題は、考えない人を育てている」
ノーベル物理学賞受賞の益川敏英京都大名誉教授はそう語っている。
考えない人…確かに、問題解決能力に乏しい人間が増えている。常識が通じない日本人も目立つようになった。
問題が解決できぬまま、自ら問題を引き起こしてしまう者が結構増えているような気もする。
真実を見抜く眼を若者たちには持ってもらわねばならないのに、今の時代は、偽りの世界で偽りの自分を生きて、真実から眼をそらしてしまうような人間がはびこる社会をいつの間にか築き上げてきてしまった。
世の大人の功罪である。
同時に今の日本は、思想や哲学を持たない人間が多数いる社会でもあるように見える。
わかりやすく言えば、モノとカネさえあれば幸せ…といった考えが罷り通る世界で、本能と欲望にまみれた人間を育成しているのだろうか。
自分のことさえろくにできず、自分のことしか考えられないひとりよがりな人間。それは本来の人間のあるべき姿ではない。
人を育てられなくなった社会、子どもにしつけのできない親がはびこるようになれば、その社会は間違いなく崩壊していく。
世の中を見渡せば、マニュアルがなければ生きていけない人間が増えているようにも思う。
YouTubeにはそんなマニュアル的なものを指南するあらゆる種類の動画がたくさんある。何をするにも既に手本があったりガイドがあったりするのはありがたいが、その時点で、自分の頭で考える機会が奪われてしまっている。
失敗するのが当たり前なのに、失敗することを恐れるあまり中途で挫折して自信喪失になってしまう。だから、何をやっても長続きしないということも多い。
日本人の特性として、人と同じでなければいけない。人並みでなければ恥ずかしい…そんな発想が人々の個性を見えないものにしてしまっている。「みんなちがってみんないい」ということが蔑ろにされがちということだ。
人生はマークシートではない。
4つの選択肢に必ず正解が隠されているというのは、あまりにも過保護な教育。何もないところから答えを導き出すのが現実の世界。無数の選択肢から真実を見出す力を身につけるように導くのが、本来の教育のあり方だと考えている。
子どもたちから生きる気力を奪う脱力教育はいらない。
社会が必要としているのは、ロボット的人間などではない。思慮深く、かつ感性豊かに生きる人間。人の痛みがわかる、人の立場を考えて適切な言動ができる人間なのではないか。
知識や情報をたくさん持っている頭でっかちな人間が偉いという訳ではない。そこにハートが伴わなければコンピュータと同じ。
若くして起業して地位や名誉・財産に恵まれた経営者も今は少なくないが、そういった人たちが皆ハートフルで人間味にあふれた魅力ある人物であるかというとそういう訳でもない。
ゲーム感覚で物事を考えると、とにかく勝つためには手段を選ばない…そんな発想がエゴ優先の生き方にもつながりかねない。自分の成功のためには他人を蹴落としても平気…義理や人情というのはもはや古い考えなのだろうか。
生きることにもっと貪欲に、必死になって自分と、あるいは社会と対峙(たいじ)する、今の時代に必要なのはそんな若者を育てていく教育ではないのだろうか?
教育現場から離れてはや15年経つけれど、この国の行方を憂う気持ちは今も変わっていない。
政治や経済が衰退するよりも、教育のレベルが衰退していくことの方が実は恐ろしい。だからこそ、少しでも子供たちの未来を考えるのであれば、我々大人が率先してできることを全力で取り組んでいく必要がある。
教育というのは、時代を担う人材を育てていく行為でもある。素晴らしい逸材は素晴らしい逸材を育てるだろうし、まともな人間がまともな人間を育てていく。どうしようもない人間にはどうしようもない人間しか育てられない。
今の僕にできることは限られているのかもしれないが、自分なりに自分自身の言葉と行動で、若者たちにそんな思いをでき得る限りアピールし続けたいと思う。