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命懸けの走り:遭難or生還?

たった80日不在だっただけなのに、我が街富田林をぶらぶら歩いてみて忘れかけてたことをあれこれ思い出した。

と同時に、スペインとポルトガルで過ごしたあれらの日々は確実に過去のものになっていくということを再認識する。

行く人来る人がいるように、過去と未来は今という時間の中で凝縮されている。


今なお、目を閉じると、スペインアンダルシア山中をさまよっていたあの日の自分が浮かんでくる。

「僕はどこに行けばいいのか…?」

まるで行き場を失った僕の人生を象徴するかのようなできごと。

「遭難するのか、あるいは生還できるのか?あきらめたらそこで終わる。ならば絶対にあきらめない」


生死の境目…とまでは行かなくても、そこが人生の分岐点であることは間違いなかった。

いやが上にもいろんなことを考えざるを得なかった。

「人はいつか必ず死ぬ」

「人はいつ死ぬかわからない」

「人生は一度しかない」

宗教家でも哲学者でもない僕がそんな思いに浸っていた時間。


遭難したら、ここで野垂れ死にしたらどういうことが予想されるのだろう…?

というシミュレーションをまずしてみた。

実際にそんな最期を迎えた人たちもこの世(あの世?)にはたくさんいる。

生きて還れないというのはいろんな後悔を残すばかりだという結論。

ならば、絶対に生きて還る道を選ばなくてはならない。


生還するための道を必死で(無我夢中になって)探した。

あれこそが「命懸け」の走りだったと今なら言える。

なりふり構わず、持ち得る力を出し切らなければ一生悔いが残る。

パニックの一歩手前…。

でも、そこで慌てても仕方ない。あせっても事態は悪化する。

そんな時は、深呼吸。笑顔で乗り切る。

あわててあせって事態が悪化するのならば、そこはもう開き直るしかない。

山中を走りながら「生還できたら」という前提で起こり得るいろんなことをシミュレーションしてみる。

帰国してやりたいことや食べたいものを思い浮かべてみたり、死ぬまでに行ってみたい場所や逢ってみたい人のことを考えてみた。


肯定的なシミュレーションをしている間は、無意識のうちに穏やかな気持ちになっている自分がいたのだろう。

既にその思考パタンで生きている自分が今はいるのだけれど、それはあの時の自分が引き寄せた未来でしかない。

あの時のあの思考が現実化したということ。

今にフォーカスできた結果なのだ。


これを裏返して考えたら、否定的なシミュレーションを続けてたら、僕は間違いなく遭難していただろう。

あのまま残された水と食料をちびちび口に入れながら、最大限の不平不満の感情を抱えたままアンダルシア山中で彷徨を続けていたに違いない。

そして、そんなことを引き起こした自分を最後の最後まで責め続けていただろう。


何が言いたかったのかというと、今の思考が未来にそれなりの影響を及ぼすということ。

必要なのは、笑顔・深呼吸・肯定的な思考シミュレーション。

そして今にフォーカス、今を快く、心地よく楽しむ自分がいればいつも未来は明るいものになるということ。

「当たり前」の反対は「ありがたい」。今当たり前だと思っていることは実はそうじゃなくってありがたい(なかなかない)こと。

感謝の気持ちを忘れないこと。それが、ありがたい(ありがとう)と思える自分になれる。

何もかもを当たり前にしてしまったらいつかバチが当たる。

今回の事件は、神様が僕に感謝の気持ちを思い出させるために仕組んだものだったのかもしれない。



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高繁勝彦(アドヴェンチャー・ランナー)
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