自分の 「自分語り」
エンパスの人は、もともと誰もが持っている共感能力が、置かれた育ちの環境ゆえに他の人より特に発達した、といえるかもしれない。
私のように強めエンパスとして成長するのには、私の家庭はサイコーの環境だったと思う。恵まれた環境、といえるような境地にはまだ至っていないけれど。
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私は両親が揃った家で育ったが、父も母も自分の気持ちを適切に扱えなかった。そして、その扱い方と表から見える姿は父母で真逆だった。
父はすべてにおいて俺様な人。
母は自分がどこにもないタイプ。
父は自分が全てなので、不満や不快感は即吐き出すことで、その処理は周り任せ。ハッピーでいられないのは周りのせい。
母はそんな父に合わせるだけ合わせていた。当然不満だらけだけど、そんな自分に向き合えずひたすら我慢の人。
父にとって、子どもである私が父の気持ちを最優先に察し、合わせた態度や行動をとるのが当たり前とされた。そして、母は、別にエンパスでなくても勘のいい人ならわかるぐらい、我慢して耐える雰囲気や表情が滲みでているので、子どものほうが、これ以上苦しませないように、と母を心配するあまりこちらから気持ちを察しにいくことになった。
エンパスであることを、父は真っ向から要求し、母は暗に、やっぱり要求していた。うちはまるでエンパス養成所みたいで、私はそこではなかなかよい成績をおさめたと思う(笑)。
いまここでは、私が両親の気持ちや感情を読む状況のみをとりあげてはいるが、もちろんこういう親なので、私の感情も気持ちも汲まれたことはほとんどない。
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私が育ったような家庭を説明するときに使う言葉は世の中にたくさんある。
心理的虐待、機能不全家族、毒親等等。
そして、そこで育った子どもは、子どもらしく育った時期がほとんどなくて、アダルトチャイルド(AC)という、とか。
こういう言葉や概念は、私自身の理解と癒しに少しは役立った。でもほんの少し。正直それほどでもなかった。
むしろ、ここから感じる、自分は被害者、のような感覚が無力感になり広がっていき、力は湧いてこなかった。
それでも、私にしっくりきたこともいくつかある。
例えば…親子関係の乱用。
虐待はabuseを訳したものだが、この非日常的なキツいニュアンスの虐待という言葉よりもっといい訳がある、という専門家は多い。
abuseは、drug abuse を薬物乱用というように、乱用と訳すことが出来、こちらのほうが私も現状に合っていると思う。親による、子どもの不適切な扱い方といった意味になり、親子関係を乱用されている、とするとしっくりくる。
何より、強めエンパスという能力自体が相手あっての関係性の上で発揮されることが多くて、それは日常事だったし、しっくりきた。
乱用と表現すると、乱用というのは虐待っていう非日常な特別なものでもなく、それは私との日頃の関係性の中にあるから、エンパスな私が私の気持ちや感情を消しにくいのだ。きちんと存在がそこにある。その上で大変だった、という立ち位置からスタート出来る。 乱用という表現は、道が前に開けている気がした。
エンパスな私が、虐待とか毒親という表現や概念が嫌なのには、エンパスならではの理由もあると思う。 親の気持ちをかなり正確に感じられるせいで、虐待したとか、毒親とかのレッテルを貼られたときの親の気持ちをそのまま自分の中で感じてしまうのだ。
実は、親のことを他の人の目に触れる場で語ったのはこれが初めて。
結構大変な作業だと実感している。
私のエンパス育成環境は、家庭環境だけでなく、日本型教育のお陰でさらに強化されダメ出しされた、と思っている。修正される機会がなかった。
今度、教育環境のことも語りたい。