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人肉を、
伊勢に出かける前に、「アシュラ」というアニメ映画を見ていた。生まれ落ちた時から飢饉で食べ物がなく、人を殺して食べるしか生きる術を持たなかったアシュラという少年の物語。
ところで。
松尾芭蕉は各地をまわりたくさんの美しい俳句を残したけれども、彼が生きた時代は太陽の活動が弱くなり、気温が低く、作物が実りにくい時代だった。そして飢饉が世界中で起こることになる。彼が旅の途中で寄った村も、一家全員が家のなかで抱き合ったままミイラ化していたり、路上にたくさんの遺体が転がり、鳥がそれをついばんでいた。
人が飢えて死ぬということは、芭蕉の時代のことだけではなく、世界中や日本中で何度も何度も起こっていた出来事だと思う。
そして、飢えて人々が死んでいくなかで、奪い合いや騙し合いや殺し合いがあったと思う。極限の状態で人を食べた人もいただろう。
食べた人もいただろう、というか、その人は僕の先祖かも知れない。
僕の先祖は人肉を食べただろうか。食べたかもしれない。人を殺して、食べ物を奪ったかもしれない。だから僕は生きているのかもしれない。
いや、人の肉なんて食べない。絶対に食べない。と決めていたかも知れない。野山でもぐらやセキレイやミミズを捕らえて食べていたかもしれない。僕の先祖は人肉を食べなかったのかもしれない。なんとか工夫して生きてきたから、僕は生きているのかもしれない。
わからない。
伊勢神宮には、外宮と内宮がある。内宮ではアマテラスオオミカミ。外宮では、衣食住の神様であるトヨウケオオミカミが祀られている。
僕は、人を食べなくても、日清のカップヌードルとか、アメリカンドックどか、からあげくんとか、ハッピーターンとかUFO の焼きそばや、フォアグラを食べることができる。
先祖は、飢えて人肉を食べたかも知れないし、人を殺したかもしれない。でも僕は、まだ、人を殺しても食べてもいない。
映画「アシュラ」の中でアシュラが、
「こんな苦しいところに産みやがって!生まれて来なければよかった!」
と泣き叫ぶシーンがある。
僕は、そんな叫びを叫べるほど、苦しんではいない。
もちろん、いまの世にあっても、生きるのが苦しくて苦しくてこの叫びを叫ぶことができる人はたくさんいるのだと思う。
けれど、僕はこの世にあって、この叫びを叫ぶ権利はあまり持っていない。人を食わねばならぬほど、人に化け物と呼ばれるほど、人にお前なんか人間じゃないと言われるほど、苦しい事は経験していない。
僕は、この時代に産み落とされて、休みの日に、のほほんと伊勢神宮に行くことができる。
それは、ものすごくありがたいことだなあ、と早朝の外宮を参拝しながら、思った。
人肉を、
食べたかも知らない、
ごせんぞよ
ありがとう。
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