消えた皇女の左手:和宮の遺体に秘められた明治維新の闇
▶和宮の都市伝説
明治時代って新選組を筆頭に「明治時代」というジャンルが好き!って方多いですよね。
そして、やっぱり人気なのは「明治維新」。
歴史好き、都市伝説的にも非常に人気ある明治維新ですが、今回は江戸城の無血開城に非常に重要な役割をしたものの、歴史の中で忘れられてしまった孝明天皇の妹で14代将軍・徳川家茂と結婚した皇女「和宮(かずのみや)」の都市伝説についてお話します。
和宮は明治天皇前の天皇で、明治維新側と対立していた孝明天皇の妹で、徳川家茂の妻。
つまり天皇家と徳川家それぞれの立場にも立てる歴史的に見ても非常に珍しい皇女となります。
この和宮はあまり表立って明治維新の話に出てこないのですが、とくに江戸の無血開城に関わっています。
▶明治維新の振り返り
そもそも明治維新は改革派の薩長同盟が徳川幕府を打破し日本は開国をすることになり、近代国家へ急速に進みました。
都市伝説的に言えば、明治維新側にはフリーメイソンがおり、坂本龍馬を利用し、鎖国をしている日本を自由貿易という名のグローバル化をさせて、植民地化させることが目的でした。
そして、明治維新側と対立していたのが和宮の兄である孝明天皇です。
孝明天皇は開国反対の思想である尊王攘夷(そんのうじょうい)のシンボル的な存在で、「徳川幕府と天皇側の公家、朝廷を合体させ」権力を強めて、外国と張り合うという方針の政策をとっており改革派とは真逆の思想でした。
幕府と朝廷が協力して朝廷と幕府の力を強化させる政策「公武合体」実現させるために、孝明天皇の妹、和宮はもともと婚約者がいましたが、14代将軍・徳川家茂と無理やり結婚させられることに。
しかし、孝明天皇はその後1867年1月30日36才の若さで急死します。
両目、両耳、口、鼻腔、尿道口、肛門すべての穴から出血して死亡。
出血性天然痘になるとあり得る症状なようですが、かなり稀なケースと言えます。
改革派にとっては、大きな目の上のたんこぶだった孝明天皇が亡くなり、孝明天皇の息子が天皇として即位してから明治維新は急速に進み始めます。
この「あまりにもタイミングが良すぎる」ために、明治維新、改革を進めたいある人物が暗殺したのでは?と言われております。
その人物とは岩倉具視です。
明治天皇の都市伝説と言えば14歳で皇位継承した時と、16歳で即位の礼を行った時を比べると、体つきも一回りも大きくなっており、別人説が当時から有名で、「明治維新を進めるために孝明天皇を暗殺し、跡継ぎの明治天皇も即位前に暗殺されたのではないかという『明治天皇すり替え説』は有名ですよね。
孝明天皇が急死し、明治天皇になると一気に幕府討伐、開国へと進み、いよいよ明治維新が本格的に進みだし、江戸総攻撃、徳川壊滅の動きが高まります。
和宮は、幕府と朝廷どちらにも顔が利く自身の強みを活かし、様々な人脈を通じて、徳川相続への働きかけを行います。
それが結果的に江戸城無血開城という平和的な解決に向けた重要な要因の一つとなり、100万人以上が住む当時世界最大規模の都市であった江戸を戦火から守ることに貢献しました。
▶遺体に左手がない
そんな和宮は、療養中に夏の箱根で亡くなりますが、ご遺体は神奈川の箱根から、現在のお墓となる港区の増上寺(ぞうじょうじ)に移動するまで10日かかったことが分かっており、なぜそこまで日数がかかったかはっきりと分かっていません。
そして、時代がかわり1950年代(昭和30年代)に、和宮のお墓がある増上寺の一部が売却されて、プリンスホテルが建てられることになります。
これに伴い歴代将軍と正側室の墓所を改葬する為、発掘調査をすることになり、和宮の墓も対象となりました。
この時の和宮のお墓を調査したところ、和宮の遺体に左手がありませんでした。
発掘調査の報告書には、「皇女和宮の遺骨はキレイな状態で残っていたにも関わらず、左手の手首から先の骨がいくら探してもみつからなかった」と報告されると消えた皇女の左手として騒ぎになりました。
これに対しては「生前からなかったという」説があります。
和宮の銅像がいくつか存在するのですがすべての銅像の左手が隠れており、肖像画にも描かれていません。
そのことから、生まれつき欠損していた?と言われています。
ただし、生前から左手が欠損していたなら、明治時代の方なので何かしら公的な文書などで記録に残っていてもおかしくないのですが、そのようなエピソードは一切ありません。
では写真を見ればわかるのでは?と思い写真を検索してみました。
こちらは和宮唯一の写真として認知されていたものです。
写真に左手がありました。
そのため、左手の骨は埋葬時たまたま消失したのでは?と左手論争はまとまったのですが。
2011年に根底を覆す記事が新聞に掲載されます。
読売新聞が報じた内容です。
和宮唯一の写真として明治時代から認識されていたこちらの写真は偽物だったと報道されたのです。
そもそも、この写真がなぜ和宮の写真であると言われてきたのか。
根拠としては明治時代の政治家、小坂善之助(みずほ銀行を作ったひと)の妻が「この写真は和宮の写真です」と証言したことがきっかけだっただけなのです。
この小坂善之助という人は明治時代の政党で伊藤博文が初代党首だった「立憲政友会」(りっけんせいゆうかい)のメンバーでした。
立憲政友会は明治維新で始まった日本の近代化を政治面でさらに推し進める役割を果たしました。
つまり明治政府、明治維新側にずぶずぶな政治家の奥様による証言でこの写真が和宮だと2011年まで信じられていたということなんです。(信じられない)
天皇の妹で徳川将軍の妻だった人の写真をうっかり的なことで長年訂正せずにしておくとは考えられないので、和宮の左手が明治政府にとってなにか都合が悪いのでないかと都市伝説的には考えてしまいます。
そして、それを裏付ける話があります。
和宮のお墓の発掘調査をしている発掘調査団にある手紙が届きます。
それは祖母が和宮の側近だったという方からで、祖母から和宮の死の真相について語り継がれている内容があるという手紙だったそうです。
その内容というのは、和宮は京都に向かう途中だった箱根山中で襲われて、左手が切り落とされその後亡くなったというものでした。
その時和宮と一緒にいたのが孝明天皇を暗殺したと言いわれている岩倉具視だったとそうです。
この話が本当なら、たまたま和宮と岩倉具視が襲われ、たまたま和宮だけが襲われたというのは考えずらく、岩倉具視が糸を引いたと考えるのが自然かもしれません。
また、和宮かずのみやの遺体はなぜか真夏にしばらく放置され、その後、箱根から東京にある増上寺に運ばれたので、かなり遺体は傷んでいたと思われます。
これも暗殺の証拠を隠すためあえて遺体の状態を悪くしたのかもしれません。
さらに不可解なことが発掘調査で分かります。
和宮と結婚し先に亡くなった第14代将軍徳川家茂の墓には、女性の髪の毛が見つかりました。
これは妻である和宮の髪の毛と言われていましたが、和宮の遺体のDNA鑑定が行われると、徳川家茂の墓にあった女性の髪の毛は和宮と別の人間だったことが分かります。
実は、徳川家茂が亡くった時とそれ以降で和宮が入れ替わったのではないかという話もあります。
その証拠として和宮は若くして足が悪かったのですが、遺体を調査したところ健全な女性の足だったと言われています。
そうなると、本物の和宮は家茂が亡くなった後に暗殺され、すり替わった偽の和宮がその後しばらくおり、証拠、口封じによって箱根で消された。
その偽物が和宮のお墓に埋葬されていたという陰謀論も考えられますね。
真相は分かりませんが、箱根で亡くなり腐乱状態で埋葬されたわけですから、江戸の無血開城の影の立役者にして天皇と徳川家の血筋を持った、皇女にしてはあまりにも切ない、最後だったことになります。
そしてこれが最後の話になるのですが、
和宮のお墓を調査したときに一つだけ副葬品がみつかったんです。
それは一枚のガラス板でした。
それはのちに写真湿板(しゃしん しっぱ)だったことがわかります。
写真湿板とは薬品をガラス板に塗り、撮影した写真の画像をガラス板に現像させる「昔の写真」です。
発掘後に見つかった貴重な画像がこちら
しかし、その後保管方法が雑だったこともあり湿板写真に写っていた画像は消え、ただのガラス板になってしまいました。
和宮は生前、自分が死んだときは夫であり若くして亡くなった「家茂」の横にお墓を建てて欲しいと要望しており実際、和宮のお墓は家茂の横にあります。
そのため、夫である「家茂」の写真では?と言われていますが、真相は分かりません。
以上、今回は謎が残る皇女和宮の都市伝説を
お話しました。
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