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No.964 フォーカシング指向心理療法について、著書「フォーカシング」を読み直しながら「フェルトセンス」を味わってみる、、
今回もフォーカシング創始者 ユージン.T.ジェンドリン博士著 「フォーカシング」を読み直した私の感覚を書いてみたい。
今回は、第3章 カラダが知っていること
what the body knows を見直してみる。
まず、ジェンドリン博士は言う。
第2章ではこの本全体の基礎となっている、2つの重要な発見について述べたと。
その第1は、「フェルトセンス」についてである。
このフェルトセンスは、私たちの生活に深い影響を与えるような、そして、各個人それぞれの目標達成の助けとなる道具として使えるようなある種のカラダの気づきであり、この気づきはこれまでほとんど注意を払われてこなかったため、自分で言葉を創らねばならなかった。それがフェルトセンスである、と言う。
第2の重要な発見は、フェルトセンスとは、それに正しく接近すればシフトするであろうと言うことだ。
状況についてのフェルトセンスが変われば、あなたが変わり、あなたの生活が変わるのだ、と言う。
そして、この第3章では、フェルトセンスが何であるかを具体的に述べている。
フェルトセンスは、頭の上での経験ではなく、カラダの経験であり、身体的なものである。
ある状況とか、人、あるいは出来事について、カラダで気づくことに他ならない。それは、ある時、ある事柄について皆さんが感じている、知っているすべてを含むような一種の内的な雰囲気とでも言えるような経験である。それは、すべてを含んでいて、一つ一つではなく、一瞬のうちにそのすべてを皆さんに伝える、と言ったものである。
また、フェルトセンスは、思考や言葉やあるいは他の何か別個の単位の集まりという形で皆さんに現れてくることはなく、単一のカラダの感じとして現れてくる。
フェルトセンスは言葉では伝わらない、それは最後セラピストを含む大概の人が普通経験したことのない、馴染みのない深いレベルでの気づきである。
そして、ジェンドリン博士は、次のようにこのフェルトセンスの例を挙げる。
皆さんの生活の中で大きな意味を持つ2人の人を思い浮かべて、その2人の人物を、交互に思い起こしてください。2人をジョンとヘレンとしましょう。
それぞれを思い起こすときに生じてくる内的感覚、「ジョンについてのすべて」の感じに注目してください。それから、ヘレンについて、ジョンとは全く違う雰囲気であることに注目しましょう。
それぞれの人を思い起こすときの内的感覚は、頭の中で意識的に加えていく、様々な個々の情報の断片から成り立っているわけではありません。
むしろ、一瞬に与えられ、カラダで感じられるものです。「ヘレンについてのすべて」という感じは、断片的情報のすべてを含んではいるものの、しかし、この感じは、カラダの中で感じる単一の大きな雰囲気として一瞬のうちに経験される感覚です。
思考では、これらの知識すべてを保持することも、あるいはこれだけの速さで伝えることもできません。
しかし、カラダなら、「ヘレンについてのすべて」を一つの途方もなく大きく豊かで複雑な認知経験、つまりは、一つの全体的なフェルトセンスで伝えることができます。
続けて、ジェンドリン博士はフェルトセンスと情動の違いについて次のように書いている。
フェルトセンスは情動ではないことに気をつける必要がある。フェルトセンスには、事実関係での要素と並んで情動的要素があるのは確かであるが、それはどんな単一な情動よりも大きく、もっと複雑で言葉で表すのがずっと難しいようなものである。
このことについて、ジェンドリン博士は怒りを例に説明する。
例えば、怒りという情動はフェルトセンスではない。それは、「〇〇についてのすべて」ではない。情動はしばしば鋭い切れ味で、はっきりと感じられ、往々にして、「怒り」、「恐怖」、「愛」など、それを表現できる手軽なラベルをつけられるような現れかたをする。
フェルトセンスは、もっと大きく、かつ複雑であり、ほとんど常に不明確で、少なくともそれに焦点を合わせるまでは、便利なラベルがつけられた形で現れることは滅多にない、と。
上記のジェンドリン博士が述べたことから、私なりに、フェルトセンスについて理解してみる。
フェルトセンスとは、まだ、言葉として概念化されていない、未分化な微かで微細なカラダの感覚である。
それは、私たちが自分のカラダへと注意を向けなければ、決して現れることのない感覚である。
一方、情動とは、怒り、悲しみ、怖れ、と言った既に言葉として、概念化されたものであり、私たちの表層にある特に苦痛を伴うような感覚である。
そして、情動は私たちを感情的にしたり、ヒステリックにしたり、我を忘れさせたり、自分や他者を攻撃したりする。
情動の赴くがままに私たちが表現したり、行動したりした場合、もしかしたら、その時は気持ちが少しだけ興奮から収まるかもしれないが、その感情は消化されておらず、私たちのカラダに留まり続ける。
そして、また、同じことを繰り返すのが関の山だ。
しかし、この情動に巻き込まれることなく、私たちがフォーカシングによって、フェルトセンスを探しだし、それに触れることができるなら、私たちは感情的になったり、ヒステリーを起こしたり、我を忘れるほど興奮したり、自分や他者を攻撃したりすることは起こらない。
「今、この怒りは〇〇の状況についてのどんな怒りなんだろう」
「今、この悲しみの中にある〇〇についてのすべてに注目してみましょう。どんな感じなのだろうか」
このように、私たちの情動は、その状況やその問題、その人についての全体的な感覚であり、ただ、情動に任せるのではなく、少し、情動と距離をとりながら、情動を眺めることで、私たちは情動の深層部分に存在するフェルトセンスに触れることができるのだ。
そして、ひとたびフェルトセンスに触れたなら、これまでのカラダの感覚とは違う気持ちの良い体験を私たちは得る。
それは、カラダの緊張が緩んだり、ホッとしたり、安心したり、呼吸が深くなったり、苦痛とは程遠い感覚を体験するだろう。
これにより、私たちのこれまでの体験は新しい体験へと変化し、例えば、暗闇を彷徨っていたような感覚から、少しずつ明け方を迎えているようなカラダの感覚を感じるかもしれない。
そして、フェルトセンスとは、私たちを生き生きとした方向へ導いてくれる、それは、私たちに未来の道を示してくれる、次なるものの暗示でもあるのだ。