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No.971 映画 【室井慎次 生き続ける者】を観て、体験過程療法にフォーカスしてみる
おはようございます✨
写真は 鹿児島市にそびえる西郷隆盛翁の銅像。
どっしりとした存在が見るものを圧倒する。
さて、映画【室井慎次 生き続ける者】を観た。
愛するとは何か、人を信じ続けるとは何か、を気づかされる映画だった。
私は目頭が熱くなり、こぼれ落ちる涙と胸の辺りから聴こえる、こころの響きを体感した。
人を傷つけると思うから恐いんだ。それは人を守るものでもあるんだ。
お前たちのことを考えたり、心配したり、悩んだり、そして、苦しんだりすることが楽しいんだよ。それが人間なんだ。
家族の時間には限りがある。お前たちは自分の足でこれからを歩いていくんだ。
映画の中から、室井慎次の言葉が私に語りかける。
よく、映画を観ていると何故かわからないのに涙がこぼれ落ちることがある。
皆さんにもそんな経験の一つや二つはあるだろう。
しかし、どうして涙がこぼれ落ちるのだろうと、その涙の理由を探そうとしても見つからない。
このこぼれ落ちる涙の理由はわからない。
ただ、私の涙がこぼれ落ちているという事実がそこに存在する。
そして、その時、私のカラダの奥底からまだ言葉にはできない何かが浮かび上がっている、それが存在していることに気づく。
それが涙の源泉なのだと感じる。
そんな時、私はいつもその源泉に注意を向けてみる。しかし、何かあるのはわかるのだが、何かはわからないことの繰り返しとなる。
しかし、今日映画を観ながら、大きな気づきがあった。
それは、“どうして涙がこぼれ落ち、嗚咽のような感覚が沸きあがるのだろう”ということがわからないのは当たり前だという気づきだ。
とても言葉として表現しにくいのだが、“私のそこにあるその存在”は簡単にわかるほど単純ではない存在であるということだ。映画を観ながら私が体験している”内的な存在するそれ”は複雑である。それは単純な一つではないのだ。
私が映画を観ている時、映画の中のある登場人物に対する私の気持ちだけから感じているのではない。
私の観ているその映画は、そのスクリーンに映し出されたすべてを含んで私に語りかけてきている。
もっと言えば、私が存在しているその劇場のすべてをも含んでいる。
それは、室井慎次であり、その家族一人ひとりであり、その周囲の村人であり、秋田犬であり、映し出される風景やその状況であり、私のいる劇場の雰囲気や状況であり、そのすべてを含んで私に語りかけてくる。
そして、そのすべてを含んだ感覚を私が感じている。
それだけ複雑なわけであり、よくわからないのは当たり前なのだ。
その複雑な内的実存と私の今の状況へと注意を向けると内的実存の分化が起こり始める。
このことは、体験過程における内的分化が外的な状況や環境と相互作用しながら推進していることを意味している。
しかし、“よくわからないことが当たり前なんだというその感覚”は、既に私の気持ちを穏やかにし、ホッとさせ、愛することや信じ続けることの意味を感じとして私に伝えている。
このことは、どうしてそんなことが起こったのだろうとか、何故なんだろうと言った、原因探しは何ら意味をなさないことを知っている。
そして、私たちのカラダに感じられるそんな意味ある感覚は、よくわからない、まだ概念化されていない前概念的なものであることをも指し示している。
また、その意味ある感覚は、単純なものでなく、複雑にその状況との相互作用という関係を持って、私たちに語りかけてくる。
私がこのことに気づいた時、それはまだ映画を観ている最中であったが、胸の辺りから緊張した感覚がなくなり、柔らかな感覚を感じ取れた。
これまで、涙がこぼれ落ちる時、私はその涙の源泉にだけ、ただ注意を向け、スクリーンの中の誰に対して、何に対しての涙なのかを理解しようとしていた。
すると、私の中に存在する意味ある感覚は、状況との相互作用が伴わず、内的分化は起こらず、推進が止まってしまった。
スクリーンに映し出される一枚の動く絵画、そのすべてを私が追体験しながら、その相互作用の中で涙がこぼれ落ちるのだ。
それは、映画における、私を含めた一人ひとりの実存や出会い、本来性を実感することでこれまでにない価値を見出すのである。