山川方夫「愛読する作家」:翻刻と解題
はじめに
日本近代文学館に、「山川方夫文庫」がある。これは、山川の遺品や関連資料を収蔵するコレクションのことで、残念ながら一般公開はされていない。『山川方夫全集』未収録作品「十八才の女」が本文庫から発掘され、『長くて短い一年 山川方夫ショートショート集成』(ちくま文庫、2023年)に収録されたことは記憶に新しい。本文庫を開設されたのは、同館理事長を務めたことでも知られる、小説家の故坂上弘氏である。坂上氏は、『山川方夫全集』の編纂や講演活動等を通じて、山川文学の普及に誰よりも貢献された方である。山川文学の研究環境を整備してくださった坂上氏に、改めて敬意を表したいと思う。
今回は、その「山川方夫文庫」の収蔵資料の一つである、「愛読する作家」を取り上げる。本資料は、これまで『山川方夫全集』を含むどの媒体にも発表されたことがなく、本記事によって初めて公開される資料である。詳しくは後述するが、本資料が山川文学を研究する上で貴重な資料であることは間違いない。
以下に掲げるのは、本資料「愛読する作家」の全文である。本資料は6ページに渡っており、本文は横組み、かつ2段組となっている。以下、改ページ箇所を「――」、段落が改まっている箇所を「〔改段〕」で示した。作家名の表記はいずれも原文ママである。本文に続けて筆者による解題を付したので、併せて参考にしていただけると幸いである。
なお、本資料の公開にあたっては、日本近代文学館より特別に許可を頂くことができた。ご協力いただいた日本近代文学館様に、心より感謝を申し上げます。
本文
解題
先述の通り、本資料は「山川方夫文庫」の中から発見されたものである。わずか6ページ、全42名の作家が列挙されているにすぎない本資料だが、今回の発見によって様々なことが明らかになった。なぜ本資料の存在が重要なのかといえば、山川が自らの愛読する作家名を体系的に明らかにした、現時点で唯一の資料だからである。山川の愛読する作家については、一部のエッセイや座談会等によって断片的に知ることができたが、それらを体系的に網羅した資料はこれまでに確認されていなかった。今回の発見によって、たとえば、山川文学のルーツを明らかにする研究が、より一層進展することが期待されるだろう。
まず、本資料の概要について説明する。先述の通り、本資料は全6ページに渡っており、1ページ目には「愛読する作家/(現代)/1959現在」という表題が付されている。2ページ目以降は作家名が記されているのみで、説明等の文章は一切含まれていない。たとえば、本リストが発表を前提としたものなのかどうか、それすらも定かではない。加えて、半数以上の作家名に「(全)」と付されており、おそらく「全作品」のことだと推定されるが、この点に関する説明もない。
注意してほしいのは、本リストがあくまでも、1959年時点で愛読していた作家を列挙したものに過ぎないという点である。当然ながら、それ以降に愛読するようになった作家や、それ以前に愛読していたが本リストの作成時点では読まなくなっていた作家は、含まれていないことが推測される。加えて、山川自身はかなりの読書家であり、そのエッセイや座談会を読む限りでは、本リストに名前のない作家への言及も多く見受けられる。本リストにある作家は、相当に厳選したものであろうことは付け加えておきたい。
次に、本リストの内容を具体的に見ていくことにしたい。
本リストの最初を飾るのは、フランス文学の作家たちである。特に注目すべきは、その冒頭にJ・P・サルトルの名を挙げていることであろう。サルトルは、山川が自他ともに認めるもっとも影響を受けた作家の一人であり、特にその初期作品にサルトルの影響が色濃く表れている。山川のエッセイ「サルトルとの出逢い」によれば、卒業論文の執筆を機にサルトルの作品にのめり込むようになり、「自他のねばねばした濃厚な実存の感触」に魅入られたと述べている(1)。現に、山川の卒業論文のタイトルは「ジャン・ポオル・サルトルの演劇について」であった。また山川方夫の年譜によれば、特に重要な衝撃を受けた作品の一つに「嘔吐」を挙げていたという(2)。その山川が、本リストの冒頭にサルトルの名を挙げるのは、至極当然なことだと言えるだろう。余談だが、サルトルは山川没後の1966年に来日し、山川の母校・慶應義塾大学で講演を行っている。もし山川が生きながらえて、サルトルの講演を聴いていたとしたら、どのような感想を持っていたのかは興味が湧くところである。
サルトルに続くのが、ガスカール、ジュリアン・グリーンといった作家たちである。このうちジュリアン・グリーンについては、作家・庵原高子の回想にその名が登場する。庵原は、かつて山川に小説の書き方を指導してもらっていたことがある。あるとき、庵原が生後まもない頃にカトリックの洗礼を受けていたと知ると、山川は、カトリック作家であるジュリアン・グリーンの『閉された庭』を貸してくれたという。ちなみに、もう一冊薦めてくれたのは、後述するグレアム・グリーンの『不良少年』(『ブライトン・ロック』)であった(3)。仏文科出身の山川が、ガスカールやジュリアン・グリーンを愛読していたとしてもなんら不思議ではないが、彼らの名をサルトルと並べているところに、その傾倒ぶりが伺えるのではないか。
その他の作家たちも簡単に見ていこう。仏文科出身の山川らしく、フランス文学を代表する作家たちの名が並べられている。いわゆる主流文学の作家ばかりでなく、サドやジュネといった異端作家や、サガンといった流行作家の名も含まれている。小説家ばかりでなく、ボードレールやランボー、アポリネールといった詩人の名も目につく。アポリネールについては、一連のコント小説の作者としても知られており、座談会「ショート・ショートのすべて その本質とは?」でも特に言及されていた一人である(4)。いずれも興味深い名前ばかりであり、これらの作家が山川にどのような影響を与えていたのか、大変気になるところである。
次に登場するのは、英米文学の作家たちである。本項目でまず目を引くのは、その冒頭にグレアム・グリーンの名を挙げていることであろう。グリーンは、映画「第三の男」の原作者としても知られるイギリスのカトリック作家である(先述のジュリアン・グリーンとは別人)。グリーンといえば、いわゆる文学作品とエンターテイメント小説とを書き分けていたことでも知られている。山川のエッセイ「早春の記憶――グレアム・グリーンをめぐって――」によれば、『事件の核心』をきっかけにグリーン作品を読みふけるようになり、特に処女作の『内なる私』に強い関心を寄せていたようである(5)。のちに『三田文学』の編集に携わるようになると、同誌にグリーンのエッセイを掲載したり、グリーンの翻訳者である丸谷才一に小文を依頼したりしている。
グリーンからの影響については、先述のエッセイで次のように記している。「僕が彼に、まじめな嘘のつき方をいろいろと教わったのはたしかなのだと思う。嘘をつくまじめさについて教わった、とそれをいってもいいのかもしれない」(6)。このように、グリーンへの傾倒ぶりは早くから知られていたところだが、本リストによってその事実が改めて浮き彫りとなった。特に、英米文学を代表する作家たちを差し置いてまで、グリーンの名を真っ先に置くところに、その強い傾倒ぶりが伺えるのではないか。
グリーンに続くのが、ヘミングウェイ、フォークナー、ポー、そしてダシール・ハメットである。ここでは特に、ポーとハメットに注目したい。「トコという男」等のエッセイでも明らかな通り、山川はミステリにも造詣の深い作家としても知られていた。それだけに、ポーのミステリ作品を愛読していた可能性も十分に考えられるだろう。ハメットについては、ヘミングウェイ以外では唯一のハードボイルド作家であり、純粋なハードボイルド作品を残さなかった山川が――ただし、そのショートショートにはハードボイルド風のものがいくつかある――、どの作品を愛読していたのかは非常に興味が湧くところである。
そして、本項目でもっとも注目すべきなのは、ジョン・コリア、ロアルド・ダール、サキの名を挙げていることであろう。彼らはいわゆる「奇妙な味」の短篇で知られる作家たちである。山川は、座談会「ショート・ショートのすべて その本質とは?」において次のように発言している。「たとえばサキとか、ダールのあるものとか、コリアだとか、ああいった味がショート・ショートの本筋だというふうに思いたいわけなんです」(7)。また別の座談会では、「サキとかコリアとかダールとかいう系統のもの、もう、これは昔から大好きです」(8)と発言しており、彼らの作品に対して強い愛着を持っていたことが伺える(9)。ただ実際には、山川のショートショートの作風は多岐にわたるものであるため、この三作家を直接のルーツと断定することはできないが、重要なルーツの一つであることは間違いないだろう。とはいえ、ヘミングウェイ、フォークナーといった名だたる作家たちの名と並べるほどに、彼らに傾倒していたとは思わなかったというのが正直なところである。彼らからの影響については、さらなる研究の余地があるのではないだろうか。
その他の作家たちについても簡単に見ていこう。
ドイツの作家で挙げているのは、トーマス・マン、カフカの二名である。特に注目すべきは、カフカの名を挙げていることであろう。カフカは、戦後になって本格的に日本に紹介された作家であり、前述の座談会でも特に言及されていた(10)。マックス・ブロートの編集による『カフカ全集』が日本で刊行されたのは1950年代のことであるから、山川が同全集を手に取っていた可能性は十分に考えられるだろう。
また、ロシアではドストエフスキーとチェーホフ、その他の地域ではチェコの作家チャペックの名を挙げている。ここではドストエフスキーに注目したい。ドストエフスキーと言えば、癲癇(てんかん)という持病を抱えていたことでも知られるが、山川もまた同じ宿痾を抱えていた。その文学のみならず、共通する持病を抱えていたという意味でも相通じるものがあったのかもしれない。
最後に、日本の作家たちを見ていくことにしたい。
本リストの最後を飾るのが、日本の作家たちである。まず目に付くのは、その冒頭に夏目漱石、森鷗外、佐藤春夫の名を挙げていることであろう。ここでは漱石に注目したい。漱石といえば、文芸評論家・江藤淳のデビューにまつわるエピソードが思い起こされる。江藤によれば、当時『三田文学』の編集者だった山川から原稿の依頼を受けたとき、当初は堀辰雄について書こうと考えていた。ところがその提案をしても、山川はあまりピンと来た様子ではない。そこで漱石を提案すると、「漱石がいい、是非漱石を書きたまえ」と山川は言い、この鶴の一声で漱石を書く事に決まったという(11)。この時に書いた『夏目漱石論』が評価され、江藤は文芸評論家としての道を歩むことになるのである。もし山川が漱石を愛読していなかったら、「文芸評論家・江藤淳」は誕生していなかったかもしれない。
また江藤は、山川の作品「最初の秋」に、家族問題と不動産侵奪という漱石作品との共通点を見出している(12)。たしかに山川には、「家族もの」と呼ぶべき一連の作品群があり、自らの家族との確執を度々描いている。ここでは深追いはしないけれども、漱石の作品が、山川の「家族もの」に影響を与えていた可能性は十分に考えられるだろう。『漱石とその時代』を自らのライフワークとしていた江藤のこの指摘は、非常に鋭いものがある。
次に続くのが、川端康成、梶井基次郎、中島敦、安岡章太郎、そして三島由紀夫である。このうち安岡については、山川の大学の先輩であり、プライベートでも親しい間柄だった一人である。のちに安岡は、『山川方夫全集』の編纂委員に名を連ねたり、解説を寄せたりするなど、山川との関わりは深い。「年譜」によれば、安岡の「ガラスの靴」が『三田文学』1951年6月号に載り、「山川たちは注目」したとある(13)。三島については、山川らが立ち上げた雑誌『文学共和国』の同人仲間が、「山川に三島由紀夫の影響を認めていた」という(14)。また私見によれば、特に山川の初期作品に三島の影響が顕著であるように思う。川端との関連でまず思い起こされるのが、一連の「掌の小説」であろう。しかしながら、川端の「掌の小説」と山川のショートショートとではその作風に大きな隔たりがあり、両者はほとんど対照的と言ってもいい。川端作品からの影響についても、さらなる研究が必要であろう。
その次に挙げられた、折口信夫、坂口安吾、武田泰淳、林芙美子、大岡昇平についても、いずれも興味の湧く面々である。このうち折口については、少年時代に特に重要な衝撃を受けた作品の一つに「死者の書」を挙げていた(15)。のちに山川が通う慶應義塾大学で折口は教鞭をとっており、1953年に亡くなった際には「山川が中心になって「三田文学」十一月号で折口信夫追悼号を企画編集」したという(16)。周知の通り、折口には小説以外にも詩歌や評論などの著作もあるが、どの作品を愛読していたのかは非常に気になるところである。
本項目の最後を飾るのが、詩人の村野四郎であることにも注目したい。村野は、生前の山川と親交があった人物で、『親しい友人たち』の書評を書いたり、冬樹社版『山川方夫全集』の月報にエッセイを寄せたりしている。本リストにある日本人作家のなかでは、佐藤春夫のように詩人としても名を馳せた人物もいるが、純粋な詩人という意味では村野が唯一である。村野との関係を含め、今後詳細な調査が望まれるところだろう。
本リストのラインナップを見た上で、筆者が意外に思ったのは、志賀直哉、太宰治、そして堀辰雄の名がなかったことである。この三作家については、「年譜」の十九歳の項で、「参考にすべき作家として、志賀直哉、太宰治、堀辰雄をあげ傾倒していた」(17)とある通り、特に愛読していた作家だと考えられていたからである。1959年の時点では、本リストに載せるほどには愛読してはいなかったのかもしれない。
また、永井龍男の名がなかったことも、筆者にとっては意外であった。山川のエッセイ「永井龍男氏の「一個」」によれば、初めて読んだ永井の作品は1949年発表の「夏まで」(のちに「ある夏まで」と改題)であり、同作を収めた単行本『朝霧』(1950年)によって永井のファンになったというが、その文章には長く疑問を持っていたという(18)。しかし、1959年に永井の短篇「一個」が発表されると、翌年には前述のエッセイを公表し、「私は、この作品に感動した」と書くなど、手放しで賞賛している(19)。また私見によれば、同年以降の山川の作品群には、この「一個」の影響が顕著であるように思う。「一個」の初出が『新潮』1959年8月号、「永井龍男氏の「一個」」の初出が同誌1960年6月号であるから、本リストの作成時点では「一個」はまだ発表されていなかったか、発表されていたとしても未読だったと考えるべきであろう。
以上、本リストの内容を概観してきた。前述の通り、本リストは山川の愛読していた作家たちの名を体系的に知ることができる唯一の資料であり、山川研究の発展に寄与するものであると筆者は確信している。山川文学に対する研究が少しでも進展することを願いつつ、筆を擱くことにしたい。
注
(1)山川 2000c、212頁
(2)坂上 2000、456頁。なお引用元には、「特に重要な衝撃を受けた作品に「チボー家の人々」「地獄の季節」「赤と黒」「嘔吐」「死者の書」「錯乱の論理」「暗い絵」を挙げる」と記されている。
(3)庵原 2015、89-90頁
(4)都筑;星;山川 1961、114頁
(5)山川 2000a、53-54頁
(6)同上、55頁
(7)都筑;星;山川 1961、115頁
(8)江藤;関根;曽野;山川 1959、256頁
(9)このうちジョン・コリアに関して、山川は次のように発言している。「僕ははじめて原書というのを読んだのがジョン・コリアなんです。ポケット・ブックで。「フロッグ・プリンス」なんてのを読んでひどく面白かつた。「グリーン・ソート」という本なんです。」「彼について何がいいかというと結局「His Monkey Wife」になつちやうのかも知れないけれども、とにかく非常に面白かつたですよ。」(江藤;関根;曽野;山川 1959、264-265頁。原文ママ)
(10)都筑;星;山川 1961、120頁
(11)江藤;桂 1996、112頁
(12)同上、112-113頁
(13)坂上 2000、460頁
(14)同上、460頁
(15)同上、456頁
(16)同上、462頁
(17)同上、457頁
(18)山川 2000b、71頁
(19)同上、73頁
参考文献
〈一次資料〉
山川方夫「早春の記憶――グレアム・グリーンをめぐって――」『山川方夫全集 第6巻 トコという男』筑摩書房、2000a、52-55頁
――――「永井龍男氏の「一個」」同上、2000b、70-75頁
――――「サルトルとの出逢い」同上、2000c、211-213頁
〈二次資料〉
庵原高子「日々の光――山川方夫」『三田文学』94巻120号、2015、87-91頁
江藤淳;桂芳久「対談 孤独の深淵をみつめて」『すばる』18巻3号、1996、102-114頁
江藤淳;関根弘;曽野綾子;山川方夫「現代人と推理小説」『宝石』14巻6号、1959、250-267頁
坂上弘「年譜」『山川方夫全集 第7巻 朝の青空』筑摩書房、2000、451-474頁
都筑道夫;星新一;山川方夫「ショート・ショートのすべて “その本質とは?”」『別冊宝石』14巻4号、1961、110-124頁