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世界の漁業でなにが起きているのかー日本漁業再生の条件ー 第3章 つくり育てる漁業への疑問—世界の科学者が危険信号を点灯

※この記事は平成8年に発行された書籍「世界の漁業でなにが起きているのかー日本漁業再生の条件ー」の内容です。発行されてからかなりの年数が経過している為、現状と乖離している内容もございますが、何卒ご了承の上お読みください。

1 万能ではないアクアカルチュア—野生資源の多様性を危険にさらす

 この項については、あまり気が進まなかった。不承不承である。なぜなら国の施策だからだ。しかし、この耳ざわりのよい『つくり育てる漁業』にはおとし穴がある。事態が深刻化してきていると聞いている。この発想自体農業と漁業を同一視しているところに問題の根の深さがある。日本人は、農耕民族だから無理はないといえばそれまでだ。私は日本人を海洋民族と思っていないし、まして海洋国家日本という表現に至っては少し厚かましいのではないかと考えている。自分自身のことで恐縮だが、若い頃遠洋漁船に乗り組んで魚をとっているといったら、近所のひとから変人に見られていた。わが町の前身はそれでも漁村であったのだから、多少でも理解があってよいのだが、話をさらに進めトロール船でアフリカに行っていると言ったら、変人を通りこして奇人に変わる。その程度だから決して海洋民族とは言えない。強いていえば、沿岸民族または海岸民族だ。京大名誉教授の会田雄次によると海民文化は片隅文化だといっている。疑問をはさむ人がいたら、欧米の歴史と比較してみればよい。海洋についての先駆者はコロンブスであり、マゼランであり、ナンセンだ。あげれば枚挙にいとまがない。
 海洋民族の源流をたどれば、商業的や探検的な要素よりも海賊的な色彩が強いのが特徴であろう。その意味からすれば日本国内で一時期歴史的に強い勢力を示したのが、村上水軍だ。司馬遼太郎は『坂の上の雲』のなかで「瀬戸内海は日本の海賊(水軍)の巣窟で、遠くは源平時代から栄え、そのころかれらは当初平家に見方し、あとで源氏に味方して義経に指揮されて壇の浦で平家の船隊を殲滅した。鎌倉をへて南北朝時代になり、世の中がみだれると、かれらの勢いはいよいよさかんになった。瀬戸内の諸水軍を大統一したのは伊予の村上義弘である。かれは戦法に長じ、その戦法が、やがては村上流となった。やがて村上氏は、因島村上氏、末島村上氏、能島村上氏などにわかれた。能島は伊予大島に付帯する島で、全島が城塞化され、能島村上氏の根拠島になっている。ここで能島流戦法がうまれた。」この能島流戦法の書を、日露戦争時の天才的な作戦参謀といわれた秋山真之が、九州の唐津の大名だった小笠原大尉から借り受け、秋山戦術の基幹をつくり、日本海海戦で勝利に導いたことはあまりにも有名である。村上水軍の海洋民族としての水準は高かったといえよう。しかしそれも国内だけか沖合い程度であろう。古代の安曇族にしても海人族であるが、海洋民族とはいいがたい。「アズミは日本の地名では、厚海、渥美、安積、熱海などとさまざまに書くが、いずれも海人族らしく潮騒のさかんな磯に住みついているのに・・・」と司馬遼太郎『街道をゆくI 』に記されている。
 前置きが長くなった。本論にもどる。つくり、育てる漁業を農業からの発想と述べたのは、魚を数千年前から養育されていたといわれている家畜と同じように考えているところに問題があるからだ。「魚は、どう猛なケダモノだ。」このことについては、川崎健の目がするどい。その著『魚と環境』『魚の資源学』につぎのように述べている。
 「本来“栽培”ということばは、人間が環境を改変することを、その内容としてふくんでいる。原野に栽培植物の種子を捲く人はいない。原始の時代にも原野を焼き払ってから種子を播いた。現代では雑草と害虫を駆除し、肥料を与えて栽培する。しかるに栽培漁業は、いわば原野に種子を播くのである。したがって放流種苗は自然状態における生物生産の諸法則に強く従属する。陸地における栽培では、対象種に最大限の生物生産を行わせる方向に環境を改変する。つまり生産力を高めてやるのである。しかし海洋ではごく特殊な場合を除き人為的に環境を改変することはできない。無限のエネルギーの使用が可能であれば別であるが、そこで余剰生産力なる概念が登場するのであろう。しかし、すでにみてきたように、これはいかにも無理な概念である」(『魚と環境』)「人間は、海の大部分をしめる外洋域を農地のように自然改造することはできず、そこに生息する回遊性水族を外洋の一定水域に閉じこめて飼育管理することはできない。他方水族は、陸上の有用生物にはみられない強い更新性を持っている。この水産資源の特性が漁業の基礎である。俗に狩猟から畜産に発展した陸上動物との対比で、漁労から養殖へというのが必然的生産力発展の筋道であるという主張であるが、これは生産資源の性格の不理解からきている誤りである。養殖というのは、陸地の外縁域である沿岸域で特定の水産生物についてだけ成り立つ飼育、管理の仕方であって、広大な海洋で成り立つものではない。」(『魚の資源学』)と明快に言い切っているのにこの考え方に、なぜ耳を傾けなかったのだろうか。その結果が養殖漁業者の倒産だ。それだけでなく、海の汚染、生態系の破壊への道に向けて進んでいる。大体サイエンスというのは、多数決で決めるものではない。自然法則や真理に合致しているかどうかが重要なポイントだ。作用があれば反作用がある。それが自然のルールだ。
 このことについては、川崎健に比べて、宇田道隆は誤解を与える表現となっていることは否めない。「沿岸への外洋水流入の挙動にきまった型があり、生物の生態的反応にも型がある。上層と下層の水、生物の動き、季節的沿岸湧昇もある。我々はこれらを究明し、将来の最良の栽培漁場をつくり出し、回遊資源の管理も可能となるであろう。海況、気況の長期予報も可能となるであろう」)(『海と漁と伝承』)
 ここで述べていることを、別の書き方をすると「表層流や深層流などの海流や魚の生態、湧昇流を究明すれば、栽培漁場や回遊魚などの管理を可能となるであろう。」となる。述べていることは、希望的観測や願望や夢であって、表層流は別としても深層流も湧昇流も解明できていないし、魚の生態や行動もわかっていない段階でスタートし、さらに拡げていくことは科学者としてあるまじき行為である。同氏の『海と魚』でも「未来と夢」として「漁業についての夢を描いてみよう。一万種もある魚族の生活や性格もやがては十分研究される日が来るであろう。そして彼等を繁殖させることも生長させることも捕えることも自由自在であろう。」とあくまでも夢を述べている。この夢はでっかい夢だ。でっかい夢は簡単に実現するものではない。数世紀に一人でるかでないかの天才ならば、話は別だが現代科学には限度があるというのが常識になっている。ところが、同書の巻末のところの「宇田道隆先生のこと—石野誠」ではどう勘ちがいしたのか「最近北海道や本州の河川に放流したサケが帰ってきた話を新聞紙やテレビジョンで時どき見かけると思う。その理由の一つは、川の水がきれいになって魚が住める環境になったということもあるが、魚の生活史(一生)やその間に生活している環境が科学的に明らかにされたことが一番大きな理由である。魚の稚魚を人工的に作り出す技術(種苗生産技術という)が進んだために、たくさんの推魚が生産され、特定の河川(彼らにとっては母川となる)に放流したものが、その後の海での生活を終えて、産卵のために母川に帰ってきたものである。これは資源培養型の漁業(つくる漁業、育てる漁業)の一つであって自然の状態のなかでは生きのこっていくために不利な環境、たとえば水温が不適であるとか、餌となる生物が不足するとか、そういった状態から保護してやり、ある程度育ったものを海に放し、大きくさせ、ふたたび人間が漁獲して利用しようとするものである。サケの他に、マダイ、ヒラメ、クルマエビ、アワビなどが対象にされている。宇田先生が本書を執筆されていた時代は生物学の知識は今よりはるかに劣っていたが、40年後の今の姿を予見されていたことになる。遠からぬ未来にクロマグロもその対象となる。」と述べている。そして、現在クロマグロの栽培の時代に入っている。サカナは陸上のケダモノの先祖である。クロマグロは陸上のケダモノの位にすると虎ぐらいかな。
 金魚、鯉、うなぎの養殖ができたのだから、海の魚でもできないはずはないと言う人もいる。たしか鯉の養殖は4000年前から行われていたという記録もある。淡水魚と海水魚とはちがう。淡水魚のエサは食物連鎖が低い。また淡水と海水とは自然変化の点でも異なる。淡水は自然変化が大であるが、海水は淡水に比べて自然変化が少ない。海水魚は自然変化の少ないところに生息しているのだ。
 先日、NHKテレビ(松山放送局)で稚魚を外国(中国からだったと思う。)から仕入れているが魚病が発生して困る。稚魚の検疫をすることができないものだろうかという内容の番組の放送があった。この程度のささやかな知識で魚の研究や養殖を行っていたのかと見ていて空おそろしい気持ちがした。当局の適切な指導が緊急に必要になってきている。「なぜ緊急か」と思う人も多いことだろう。先を急ぐ。
 もう一度、川崎健に登場していただく。「このような近年のサケ資源の増大は、人工ふ化放流成功ということだけでは説明できないという説も有力である。そのひとつは北洋における生育環境がよくなって放流稚魚の生き残りがよくなったのではないかという説である。もうひとつは、日本漁船の流網によるサケ・マス沖取りのため、この沖取りの対象にならない日本系のサケのニッチが拡大し、生き残りがよくなったのではないかというものである。」「アワビの場合には、自然環境で野生のアワビの再生産が行われており、したがって放流されたアワビは野生集団の中に組みこまれていく。アワビの食物は藻類であり、また住み場所として岩盤や転石が必要である。したがって海中の植物プランクトンや有機懸濁者を食べるホタテガイと異なって、生活の場は限られている。放流種苗が天然種南を駆逐するのか、一定の海藻をめぐって食物獲得競争が起こるのかよくわからないが、いずれにせよ生育環境への種苗の供給が、完全には人間の管理下にないことははっきりしている。種苗放流による資源の増殖は、すべての海産動物でうまくいくというものではない。ホタテガイやシロザケのような成功例は、むしろ特殊なものとして考えるべきであろう。近年はマリン・ランチング(海洋牧場の意味)と称して、ニシン・マダラ・ケガニをはじめ、クロマグロなどの大回遊性の種類まで種苗放流することが計画されているがこのようなことを事業化する前に種苗放流の成立しうる条件についての、基本的な生態学的の研究が必要である。研究を抜きにした行政的なスローガンを先走りすることは、決して健全な状態ではない。」と自然法則にかなった理論を展開している。ところが最近の主な魚介類の種苗生産実績では、ニシン・シマアジ・プリ・キジハタ・トラフグ・ガサミ・アワビ・サザエ・トリガイ・ウニ・ナマコ等日本近海でとれ、日本人が喜びそうなもので栽培漁業の対象魚は、約80種におよんでいる。(平成6年度漁業白書)資源をふやしたい気持はよくわかるが、そのことにより海の生態系はどのようになるのか、また現在どのようになっているのか知りたい。開いた口がふさがらないとはこのことだ。どこかほかの国で、これほど大規模にかつ多くの種の養殖や放流などを実施しているのか聞きたい。最近養殖漁業では、魚病の多発による経営条件の悪化、過密、単種、連作障害の顕在化、外国産種苗の導入による新しい寄生虫、伝染性疾病の発生が問題になっていると聞いている。
 エントロピーの法則というのがある。この理論は決して難しい理論ではない。エントロピーとは新英和大辞典では、「混沌、無変化」と訳している。使用不可能なエネルギーのことだ。
 宇宙における全エネルギーの総和は一定で(第一法則)、全エントロピーは絶えず増大する(第二法則)ということで第一法則が「エネルギー保存の法則」で第二法則が「エントロピーの法則」である。第二法則は、エネルギーがある状態から別の状態に変わるたびに将来なんらかの仕事を行うのに必要な“使用可能なエネルギー”失われてしまうというものだ。エントロピーが増大するということは使用不可能なエネルギーが増えることで、その最たるものに公害がある。そしてこの法則というのは単に物理学だけのものではなく、全ての生物に通ずる法則でそれも真理だ。
 アインシュタインはエントロピーはすべての科学にとって第一の法則であると言っている。このことを理解していただかないと私が提起している「つくり育てる漁業への疑問」が理解できないことになる。
 バートランド・ラッセルは「あらゆる生物は、一種の帝国主義者みたいなものだ。なんとかして自分を取り巻く環境を自分そのものに、そして自分と同じ種に変えてしまおうと狙っている。」と説明している。この地上に生きるあらゆる生物は、はんのちっぽけな植物ですら、すべての環境に大きな無秩序をもたらしながら、植物は植物自身の秩序を維持している。たしかに植物の場合エントロピーの減少は小さい。
 科学者タイラー・ミラーによれば、「1人の人間を1年間養うには、マスが300匹必要となる。300匹のマスはカエルを9万匹、9万匹のカエルはパッタを2,700万匹、そして、2,700万匹のバッタは草を1,000トン食べる」ことになる。こうしてみていくと養殖というのは、エネルギーの点からも非効率な仕事である。もちろんそれだけではない。
 ここで農業も同じでないかという反論もでてこよう。養殖も農業も酪農も養けい、養豚もみな同じである。このうちで最も効率性が高いのは食物連鎖の最下位の方に属している植物、つまり農業であることは言うまでもない。ところがその農地でも化学肥料を加えることによって、エントロピーが増加し、土壌の荒廃が進んでいるという。
 農業問題の専門家ダーイエル・ファーガソンは「農薬になる土壌障害には、はかりしれないほどの脅威がある。肥沃な土壌およそ30グラム中には何百万というパクテリア、菌類、藻類、原生植物、さらにミミズ、ムカデなどの無脊椎動物がふくまれている。これらの有機体はすべて土壌の肥沃度と構造を維持していくうえで、重要な役割を演じている。農業はこれらの有機体のみならず、微細だが複雑な生息環境を破壊し、その結果土壌のエントロピー過程を急速に早めている。その結末が土壌の病弊であり、土壌の破壊である。40億トンものアメリカの表土を破壊した責任の一端は農薬と化学肥料にありこれが毎年河川に流れ込んでいる。」と述べている。
 農業の中でも最も効率的なものが水田稲作だそうだ。土壌障害がもっとも少ないといわれている。このような農地である土壌に相当するのが海である。養殖は沿岸または半閉鎖された水域で行われている。この海はプアーで有害廃棄物が流れこんできている。もちろん自己汚染もある。病気が発生しないのがおかしい。したがって土壌改良する必要が出てくる。それが深層水であるが経費がかかる。土壌改良資金程度の援助を出しているのだろうか。
 いまひとつ、陸上とのちがいは環境にある。海は水温、塩分濃度などの変化が少なく、魚には適水温というのがあって自然変動に弱い。河口、入江などにすむ貝類エビなどが養殖に適しているのは自然変化に強いからだ。ウナギ、サケも淡水、海水の両水域で生活している。牛の飼育ができるのだからマグロもという論がでてきているが、先述した通り自然変化順応の歴史がちがう。数千年前から飼育されてきたものとワイルド・フィッシュを同列におくわけにはいかない。さらに人間を含めて食物連鎖の上位にあるものは病気発生率が高い。野生の動物が自然界の中で病気療養の状態を見たこともないし間いたこともない。山歩きをしていると病気で寝ている動物に一度くらい出くわしてもよい筈だが、鳥にしても鹿にしても猿にしても元気なやつばかりだ。
 カーソンは「海の中ですべてのものが、単独では生きていけないことが今や明らかとなっている。」といっている。このことは魚は食物連鎖の中で生きていると言っているのだ。言葉を変えればモノカルチュア(単一種の養殖・栽培)では生きられないと言っている。
 『The Weahth of Ocerms』は次のとおり述べている。「ペレットから栄養分が底に沈み、酸素の欠乏、有毒な硫化水素を放出し、高品質の餌でさえ密度の高いモノカルチュアを通してすばやく拡がる病気を防ぐことができない。ノルウェーは病気でサーモン生産の20パーセントを失い、抗生物質の使用は、1985年の19トンから1987年には530トンとなり人間と獣医の使う分を上回っているという。」抗生物質が無差別的にバクテリアを殺してしまい、これを多用することにより、新たに抵抗力の強いバクテリアを発生させ海の水質を悪化させていくことをご存知なのだろうか。
 モノカルチュアのおそろしさについては、アル・ゴア著『地球の掟』が詳しい。
 『数多くの種類の作物を植えずに、ぼう大な土地にたった一つの作物を育てることは「モノカルチュア」とよばれている。これは植物の病気や抵抗力のある害虫によって全作物が全滅するという危険性をはらんでいる。この危険性は、ある作物のたった一つの種だけが使われているときにさらに強くなる。アイルランド人は事実上唯一の食糧源であるジャガイモの中でも、たった一つの種に頼っており、その種は300年間続いた気象条件においては、最大の産出量を誇っていた。大ジャガイモ飢鐘の物語は、モノカルチュアのように、自然と人間の関係を人工的に変えてしまうなら、つまり自然の天候のむらっ気を計算に入れることができないなら、その国民に食物を与えようとしている社会の脆弱性がいかに増大するかを教えてくれる。このことはまた急速な温暖化が破局の原因となり。とも示している。』
 この大ジャガイモ飢置の物語というのは、アイルランドを襲ったジャガイモの病気(ピトパトラ・インフェスタンス)がペルー産の新種のジャガイモに始まり、1843年にはアメリカの北東に出現、翌年フランダース地方でも発生、1845年の夏までにはアイルランドに広まった。アイルランドが頼っていた唯一の作物であるジャガイモに激しく襲いかかり、10万人以上の人間が次の数年間に飢餓ないしは栄養不良が原因の病気で死んだことを指している。その年は冬、春とも暖かく、6月には気温は過去100年の平均より3度ないし4度も高かったので、急激な温暖化が原因ではないかといわれている。
 アクアカルチュアはまた魚の野生資源の多様性を危険にさらしている。
 「ノルウェーの河の中には、囲いから逃げた鮭が野生のサケの数にまさっている。カナダの研究者はこのような逃げた魚が四世代で固有の本来種のサケを除外することになろうと示唆している。1989年、ノルウェーの養殖場から逃げた数百万匹以上のサケが野生の魚(ワイルド・フィッシュ)を食べ、囲いで育ったサケの産卵の変化や索餌の行動が変ってきていることが観察されている」。(The Wealth of Oceans)
 アル・ゴアも警告を発している。
 「1991年の後期に44カ国から5名の科学者がロード・アイランドに集まった。世界中で突然、海草が爆発的に増加しはじめた原因や『赤潮』が繰り返し起きることによる海産物への影響を研究することがこのとき議題だった。漁業と養殖に対する危険性を指摘したスウェーデンのルンド大学の海草専門家がボストン・グロープ紙に次のように語っている。「現在、目の前にしている海草の爆発的増加は、鉱山のカナリアの端ぎに似ていると思う。何かたいへんなことが起きていることは間違いない。」繰り返して強調するが、地球の食糧供給体制にとって最も地球規模の脅威は遺伝子の喪失である。原種が失われ、食用作物の自然界の敵に対する抵抗力がますます弱くなっていくことである。地球温暖化に適応できると主張する人々は、遺伝子工学を駆使すれば、どのような環境でも生育できる新しい植物を創り出せると論じている。皮肉なことにまさにその議論が行われている瞬間にも、遺伝的弾力性と適応性の喪失は続いている。科学者が新しい遺伝子を創り出したことは一度もない。彼らは単に自然界から見つけた遺伝子の組み替えをしているだけであり、今、危機に瀕しているのは遺伝子の供給源なのである。」一方、1995年のワールドウォッチ研究所も『地球白書』の中で、アクアカルチュアは万能薬ではないと断定している。EUの漁業政策の中にも、同じ表現(万能薬でない。——Not a panacea)を使っている。
 「養殖漁業者はウシやブタの飼育農家よりも効率的に穀物を動物性タンパク質に変換できるからである。魚は冷血動物なので、体を温めるために熱量を必要としない。また餌を探して水中を回遊するのに最小限の筋肉しか必要としない。魚が穀物を効率よく動物性タンパク質に変換するのはこのためである。たとえば、ナマズはもっとも効率的な種の一つであるが、体重を1キロ増やすのに、餌は1キロ以下しか必要としない。対照的にフィードロット(集約的な飼養場)のウシは、肉を1キロ増やすのに7キロの穀物、ブタは約4キロ、プロイラーは2キロ強を必要とする。海や内陸の湖や河川から漁獲量が減少するにつれて、魚を養殖する魅力が増大した。海の性質や内陸の池や水槽において、間が魚を管理する養殖漁業の生産量は世界全体で、1984年の670万トンから91年の1,270万トン(海草を除く)に増大した。これは総漁獲の8分の1にあたる。しかし、養殖漁業は独自の問題をかかえている。狭い場所で養殖される魚に病気が発生しやすいこと。その病気が囲いから逃げだす魚によって野生魚のストックに墓延すること。天然魚ストックに生じる近親交配と遺伝学的脆弱化、魚の廃棄物による汚染、市場安定性などが懸念される問題点である。たとえば、アイルランドのマスのストックは、1989年に通常レベルの10パーセントを下回るほどに壊滅した。原因は海シラミという。当地で80年代半ばにサケの養殖が始まるまでは聞いたこともないような寄生虫が豪延したためであった。米国メイン州からノルウェーにいたる海域では、サケやその他の養殖魚の生産が盛んになったが、時には、病気により、また時には他の生産者との競争により何度か壊滅的な打撃を受けた。」
 一方、アメリカの大学の教科書『マリン・ライフ』ではマリカルチュアについては、440ページ中わずか1ページしかさいていない。北太平洋のサケの放流については、成長したサケが他の魚を捕食していないということが確認できなければ見合わせるべきであろうとしている。養殖についても、逆の問題すなわち沿岸汚染、生態系の破壊を考慮し制限されるべきとしている。理想的な種としては、第一次生産者の植物や海草、堆積物を食する生物、第一次生産者から遠くない雑食性の生物とし、具体的にカキ、イガイ、アワビ、エビ、海草をあげている。そして今後の食糧確保の方向性としては、魚が食べている魚を漁獲することができるならば10倍の増加が実現することになり、10億トン、20億トンの海洋生物の漁獲に目を向けるべきとしている。将来の食糧戦略は『食物連鎖を下げろ』だ。EUについても既述したとおりアクアカルチュアは万能薬でないとして、その理由は、環境的な問題、水と土地の争い、市場価格の変動、病気の発生や高いへい死率となっている。と同時に、養殖魚の逃避が本来種に与える生態系の影響をあげている。
 ヨーロッパのアクアカルチュアは、主としてスコットランド西岸・フランス・ガリシア・アンダルシア・アイルランド・ポルトガル・イタリーで急速に発展している。1991年の生産高は、982,703トンとなっている。その内訳は、イガイの530,000トンを筆頭にカキ・マス・サケの順で、この四つの種で90パーセント以上だ。
 漁業立国のアイスランドの養殖漁業はサケ・マスを主体として年間生産高はわずか2,000トンとなっている。この国の漁業については後述する。

2 生物多様性条約—対応できるか日本

 漁業白書が今後の問題として、外来種の防疫体制をとりあげているが、なぜ外来種を輸入することを許可したのかそれともなにげなく入れることになったのか、いずれにしてもこれだけ大事な問題を放置している理由が理解できない。
 魚ほど簿猛な動物はいない。カーソンは「魚はなぜ親と離れ、兄弟姉妹と離れて暮らすのだろうか。それは太古の昔から生まれてすぐに闘いがはじまる。それが親であろうと兄弟であろうと他の魚からの捕食はもちろん共食いまで行われているからだ。」と言っている。当然領域の問題も起こってくる。ところが陸上生物に比べて環境変化に弱い一面も有している。一方バートランド・ラッセルのいう「あらゆる生物は帝国主義者でなんとかして自分を取り巻く環境を自分そのものに、そして同じ種に変えてしまおうと狙っている。」という側面もあることも忘れてはなるまい。
 そのことについて『The Wealth of Oceans』は1966年、なにげなくヨーロッパ海域に日本のカキを導入したところ、早く成長するある種のかっ色の海草がフランスからノルウェーの海岸まで拡がっていった。海辺に浮んでいるところは、どこでもその海草はかなり深い水域まで広い領域をつくり、日本でよりもさらに大きく成長していった。科学者が心配しているのは、この大きな天蓋のような形をした海草が北大西洋や地中海の生態系を破壊し、支配することにある。」と述べている。同じような報告は地球白書(1994-95)にもある。
 「その他の汚染に、遺伝子プールの汚染がある。これは確立された生態系のもつ生息地にそこに居場所を持たない外来種がもちこまれることによって起こる。外来種が土着種を圧倒すると、海の生物多様性を画一化され、低減することになる。外来種は外航船のバラスト水とともに運ばれ、世界各地の沿岸生態系をいちじるしく改変してきた。——マサチューセッツ州ウイリアムズ大学が実施している海洋研究計画のジームズ・T・カールトンは毎日最低でも数千の生物種が世界の35,000隻のバラストとともに外洋を渡っていると推定している。」
海の生物はおそろしい。その環境やほかの生物に勝てば異常と思える状態をつくり出し、負ければ死滅である。外来種の魚病は防ぎようがないと言っても言い過ぎでもあるまい。仮に魚病を防げても異常事態を覚悟しなければなるまい。海の環境悪化や生態系の破壊をひき起こし生物の多様性を失っていく。
 外来種の稚魚の輸入については即刻禁止すべきであろう。海という大ジャングルの中で何が起こっているか誰もわかっていない。80種に及ぶという放流についても大幅な見直しに入るべきであろう。莫大な量を放流し、その成果があるとすれば漁獲する魚は増え続けなければならない。その結果がどうなっているのか権威ある報告の呈示が急がれる。日本を取り巻いている海の環境、生態系は悪化の一途を辿っているのではなかろうか。もしそうだとしたら取り返しがつかないことになる。外来種の移入により陸上の固有の動植物の滅亡した例は多い。次世代に大きな代償を払わせないためにも、徹底した調査研究の時期に来ている。

表3-1

つくり育てる漁業は功罪半ばというより罪の方が多いように思えてならない。急いでは駄目だ。海と魚の生態がわからなければ必ず壁に当たることになる。それも大自然を人工的に変えようとすると必ず仕返しがある。それが海洋汚染であり、種の減少を伴う生態系の破壊だ。自然はエントロピーを最小限度にとどめようと努力している。自然に人の手を加えればエントロピー(公害)は増大する。放流についてもまた消えていった魚の復活をめざしてもそれは無理というものだ。トキやパンダを増殖しようとしても無理なようにアジなどの浮魚の増殖もどうしようもない。
 このことについては、アル・ゴアはこう述べている。「重要な作物が消滅するという現象にのみとらわれると、問題の本質を見失うかもしれない。実は、消滅はその時点の出来事というよりも、必然的な一連のプロセスなのである。植物や動物が消滅を免れるためには、環境の変化にうまく適応できる遺伝的多様性を維持する必要がある。この遺伝的多様性の範囲が狭くなると、脆弱性がそれだけ大し、時にはその種の完全な消滅が避けられないある一点を越える事態となる。一般的には絶滅していく種の最後の一つが消えた瞬間が『絶滅の時』に見えるかもしれないが、実際にはそのずっと以前の遺伝的多様性を失った時点でその種は消滅する運命が決定されてしまったのである。」この考え方が、生物多様性条約に影響を与えていることは確かだ。
 しかしどうしてこのような事態(つくり育てる漁業)になったのか、その由来を調べてみるのも価値のあることだ。1980年の『西暦2000年の地球』(アメリカ合衆国政府特別報告)に次のように報告されている。
 「水産養殖からの食糧生産の増加を考えるとき楽観的な見方がなされるが、これはいわれのないことではない。制度、経済、環境、技術などの制約にもかかわらず、世界の生産量は増加しつづけている。単価の高い種類の集約的養殖—たとえば、サケの生簀飼育やエビの水路養殖など——は経済的に成り立つ線に近づきつつあるし、食物連鎖がきわめて短い動物種(種の近いもの)たとえばカキ、イガイ、ボラなど—の粗放的養殖は現在の技術でも大きく伸びる可能性をもっている。1976年のFAO主催の水産養殖世界会議では、現在の技術でも水産養殖からの世界の食糧生産はつぎの10年で二倍となり、必要な科学的、財政的、体制的支援が実現すれば、西暦2000年まで5〜10倍にすることも可能であろうと結論が出された。—わりあい低コストの動物タンパク質の生産をめざす自然水域での草食性の種類の大量生産をもっと急速に拡大する必要がある。——遡河性の種類だけではなく、沿岸回遊性の種類についても、今後20年ほどの間に、海洋牧場が開発される可能性があり、こういう方法での魚類生産に向けての公的、あるいは私企業の投資額に比例して、生産量の相当な増加(および漁業対象資源量の増大)が期待される。ここで注意しておいたほうがよいだろうが導入した個体群の天然の資源への影響の考慮、関連海域の総包容力についての決定と考慮とが必要とされよう。水産養殖によって食糧生産の拡大をはかることは、1960年代に多くの国(とくに計画経済の社会主義国)で遠洋漁業船団の拡大がそうであったように国策として、また国の最重点項目として行うべきことである。施策の中には、技術的基礎の改善、水産養殖企業の法的保護の拡大、沿岸河口域の汚染の防止、投資の奨励などが含まれねばならない。他国の大陸棚からの漁獲に対する規制が強まる中で、タンパク食糧源として水産養殖のみちはますます魅力的なものとなるに違いない。」として養殖事業をバラ色なものとした。おそらく、この1976年のFAO主催の水産養殖会議がその必要性・可能性の見解を示せば、わが国の研究者も鬼に金棒となっていったのではなかろうか。ところが肝心な傍線部分が日本では見逃されている。

(1)食物連鎖がきわめて短い動物種。
(2)必要な科学的、財政的、体制的支援。
(3)導入した個体群の天然の資源の影響の考慮と関連海域の総包容力についての決定と考慮。
(4)技術的基礎の改善。
(5)水産養殖企業の法的保護の拡大。
(6)沿岸、河口水域の汚染の防止。

などである。この報告はアメリカのものである。1977年には海面養殖の重要性がうたわれているが、きわめて限定的となっている。おそらく、アメリカもヨーロッパも上記の各項目を守っているのであろう。その結果が『養殖は万能薬でない。』という表現に変わってきたのだ。そして食糧大国アメリカは養殖よりも魚を食べる魚に目をむけてきていることを見逃してはならない。
 1995-96地球白書は「生物多様性条約の今後」として次のように記している。
 「地球サミットで採択されたもう一つの重要な条約である生物多様性条約についても、実施方法の検討が徐々に進められている。地球サミットで160ヶ国が署名したこの条約は、1993年3月29日に発効した。1994年9月現在、北と南の双方の多くの国を含む89ヶ国が批准している。1994年1月に第1回締約国会議が開かれた。大気の保安と同様、生物多様性の保全にはすべての国の利益がかかっているが一国では効果的に対応ができない。しかし皮肉なことに、この条約のもっとも重要な業績の一つは、生物多様性は『人類共通の遺産』であるという考え方を拒否したこと、つまり逆にいうと生物資源の国家主権を認めたことである。その理由は、国がなんらかの資源から利益を得ることができれば、その国はそれを保全する誘因をもつからである。遺伝子資源は計り知れない価値をもつ。たとえば遺伝物質の利用によって作物を病虫害や気候と土壌の変化から守ることは、米国の農業に年間10億ドルの利益をもたらす。製薬企業、農業、林業、漁業、化学産業が野生生物種から得る経済的利益は年間総額870億ドルを超える。これは米国の国内総生産(GDP)の4パーセント強に相当する。将来の交渉のための場を規定するだけでなく、この条約は保全計画と戦略、詳細な生物資源目録づくりと調査など、生物資源保全のために締約国政府がとるべき多数の行動を定めている。カナダ・チリ・インドネシア・オランダ・ノルウェー・ポーランド・英国などの多数の国がすでに戦略づくりの作業にとりかかっている。米国とコスタリカは生物資源調査を進めている。今後はバイオテクノロジーに関する議定者の制定や生物資源利用取り決めの国際基準の創設などが討議されるものと思われる。」
 外国種の導入については、1984年ICES(国際海洋調査評議会)は水生生物種の外国種の導入を規定する実施規定を提案。現在、ほとんどの国がなんらかの政策をとっているが、実施の水準については統一されていない、政策のうち同意されているのは

・政府は外国種導入については厳しく規定すべきこと。
・保護的な管理を必要とする。
・生態的かつ遺伝子的危険性の充分な分析が実施された後はじめて許可される。
・政府は不注意な導入を防ぐためあらゆる努力をしなければならない。

となっている。関係当局ならびに養殖漁業者はこのことをご存知なのだろうか。先日の講演会で、今後の水産資源の管理についてはこのような方向で進んでいくのではないかということで『南極生物資源保存条約の目的』という資料が配布された。
 第二条三項(C)号は次の通り。

(C)南極の海洋生物資源の持続的保存を可能にするため、採捕の直接的及び間接的な影響、外来種の導入の及ぼす影響、採捕に関連する活動の海洋生態系に及ぼす影響並びに環境の変化の及ぼす影響に関する利用可能な知識の確実性の度合を考慮にいれて、海洋生態系の復元が20年若しくは30年にわたり不可能となるおそれのある海洋生態系における変化が生ずることを防止すること又はこれらの変化が生ずる危険性を最小限にすること。

 誤解があってはならないから念のため記しておくが、これは南極に限定したものではない。今後の世界の海洋資源の管理の方向性を示すものだ。生物多様性条約のさらなる前進は時間の問題と考えた方がよい。それが世界の潮流だ。先進国日本は好むと好まざるとにかかわらず取り組んでいかなければならない。対応できるか海洋国日本と言いたい。
 この項のしめくくりとして「生命を最初に誕生させた海が自ら生んだある生命体の活動のために危機にさらされているというのは興味深い状況だ。しかし海自体は質的に悪化するとしても、存在し続けるだろう。危機はむしろ生命そのものにおよぶのである。」(カーソン)

3 人工魚礁で湧昇流は起こるのか

おそらくほかの国になくて、日本だけにあるものの一つは人工魚礁であろう。以前人工魚礁を研究している某教授の話を聞いたことがある。熱心な人で、自分で潜水をして人工魚礁が魚のすみかになっているところを写真撮影していた。しかし私はそれ以前から人工魚礁の効果については疑問を抱いていた。瀬つきの魚のすみか程度だったらなにがしかの効果があるかもしれないが、湧昇流を起こし漁場の形成の役目を期待するとなるとそれは間違いだろう。日本では湧昇流についてはしっかりした定義がなくあいまいだ。湧昇水域に魚が多いという一般論が強調されすぎるとさまざまな弊害が生じてくる。と川崎健が述べている。間接的にその弊害は人工魚礁をさしているのではなかろうかとい
うことは前にも述べた。
 湧昇流は深海からリッチな栄養塩をもたらす。それではリッチな栄養塩とプアーな栄養塩の境はどこかということになる。『マリン・ライフ』によれば、サーモクライン(温度躍層)となっている。水深はどの位で構成されるかといえば、アメリカ西岸北緯50度西経145度地点の例で、冬は変化なし。春で40メートル付近、夏で50メートル付近、秋で50メートル付近となっている。したがってこの水深以下となれば、少なくとも100メートルより深いところの水を上昇させなければならないわけで、人工的に発生させようとすると大がかりな仕組みが必要になってくる。しかもこの水深以下となるとそろそろ中層流の分野に入ってくるだろう。その流向も流速もよくわかっていないとすればどうしようもない。川崎健は「水深33〜37メートルのところに設置とあり、その結果は、この魚礁群はアイナメ・メバルなどの磯魚は集めたが、ヒラメ・カレイ類などの底魚は逆に排除した。つまり人工魚礁には魚を集める面とともに排除する面もある。そして初期に設置された魚礁は2〜3年で早くも泥に埋まり始めた。」と報告している。水深200メートルあたりで海底に20〜30メートルの起伏があったとしても、魚群が集まっているとは限らない。魚は起伏があろうとなかろうとおるところにはおる。起伏に魚が集まると決まっていれば漁業なんて楽なものだ。太古の昔から住んでいる魚のすみかを人工的に変えようとしても所詮無理な話だ。そのようなお金があれば、中層流・深層海流・湧昇流の解明の方が先だ。海流の消長の解明はひとり漁業だけでなく農業に影響を与え、さらには気象変化の予測にもつながり日本経済にも大きく関わってくる。海流の研究については漁業・農業を所轄している省庁が何よりも優先して行うべき課題である。それなくしては漁業予測など到底期待できない。

4 海はファインケミカルの宝庫

 ワールド・ウォッチ研究所は『地球白書』(1994〜95)で次のように述べている。
 「生物の貯蔵庫としての海は、科学的に高い重要性をもつ。地球の生命の歴史の90パーセントは海水中で起こったことであり、海の遺伝子プールはかけがえのない資源となっている。海の生物種は、約4億5000万年前に陸上に生物が現われたときにはすでに35億年の進化の歴史を経ていたのである。海の生物の多くは、進化論的に見て匹敵する陸上生物がいない。種の数は陸上生物のほうが多いかもしれないが、生物多様性が基本的な身体的特徴の違いで分類される門(動物分類上の最大区分)で測るならば、海洋生物の多様性は陸上生物よりも大きい。動物の33門のうち、15門は海にしか存在しない。逆に陸にしか存在しないのは1門だけである。また5門については、そこに分類される種の少なくとも95パーセントが海洋性である。治療薬や独特な合成物を探している科学者は、ますます目を海に向けるようになっている。海綿から白血病の薬がつくられたし、サンゴから接骨素材、赤藻から診断薬、サメ皮から抗感染化合物など多数の有益な物質が海のものでつくり出されている。海洋生物は陸上生物ほど研究が進んでいないため、いまや海は研究の広大な最前線となっている。」

写真3-1

 1995年8月14日『TIME』は『深海の神秘』——科学者が最後のフロンティア。深渕の挑戦に乗り出すという特集記事を組んだ。その内容はこうだ。
 「すべてがうまくいけば、来シーズンのいつか画期的な新しい潜水艇がモンタリー湾の海に処女航海に乗り出す予定。ディープフライト1と命名された長さ4メートル、1,315キログラムの艇は丸々と太った翼のある魚雷のようだが、水中の鳥のように飛行する。・・・大きな科学的ブレイク・スルーと約束された豊かな膨大な鉱物資源に誘われて、研究者は海底に挑戦していく。・・・海の経済的なポテンシャルは大きなものがあり、堂々と渦巻く海流は、世界の天候のパターンに大きな影響を与えている。どのようにすれば数兆ドルの天候に関係する被害を救うことができるか。海洋は商業的に価値のあるニッケル・鉄・マンガン・銅・コバルトを含む鉱物資源を莫大に備蓄している。
医薬品とバイオテクノロジーの各企業はすでにいつの日か奇跡的な薬品を見つけるためにいろいろな物質を探し深海のバクテリア・魚や海洋生物を分析している。カルフォルニアの研究調査機関のR氏は「私は人類にとって有益な発見が、ここ20年の間で、宇宙計画をかなりしのいでいくことになる。私達が定期的に深測に行くことができることになれば、かかったコストの支払いはただちに済まされる。——科学者はエル・ニーニョのような現象に導かれている風のパターンや海流の毎年の変化がどのようにして、商業的に価値のある魚資源を荒廃させるだけでなく、天候のパターンの劇的な移行のひき金となるかを理解しはじめた。より長いタイム・スケールの海洋の変動はメキシコ湾流のような主要な海流と結びついており氷河時代のような地球規模の気候変化を起こしたり、終わらせたりしているかもしれぬ。」そして深海については「植物こそ存在しないが、深海は科学者がかつて考えていたような生物の墓場ではない。引き揚げられた深海の底土からは、海底には生物多様性の宝庫とされる熱帯林と同じくらいの多数の生物種が存在することがうかがえる。」
 ニューヨークタイムズも『Sea is the New Frontier for Developing Drugs』と報じている。海には漢方薬があるのだ。その鍵は深層海流、湧昇流にある。日本で本格的な取り組みをしようとする気配さえ漁業白書にはうかがえない。

5 海の汚染——新しい難問

 この項については、いずれ改めて記述する予定にしている。日本では海の環境をどこが主体性をもって管理しているのかわからない。したがって海の環境が今どうなっているのかもわかっていないだろう。ポール・ケネディは中国の沿岸の三分の一は汚染されてきていると述べている。東南アジア・中国の工業化はめざましい。当然、海の汚染がはじまっている。黒潮海流にのって、日本をめざして来ていると考えた方がよい。欧米の海の公害先進国で起こっていることが、日本だけは別だと言い切れるだろうか。
 『The Sea Around Us』の再編集者の一人レビントンが次のとおり述べている。
 「最近アメリカ・ヨーロッパの沿岸水域で多くの魚が、発がん性物質として疑いのあるPCBやダイオキシンを含んでいることがわかってきている。沿岸の農地や沼地での殺虫剤の自由な使用が海洋生物を死亡させている。殺虫剤キイポンはは沿岸の農地からジェムス河(チェサピーク湾)に洗い流され、ブルー・クラブ漁業を荒廃させた。カーソンがDDTの危険性を私達に警告を発する前迄にペリカン・ミサゴ・魚を食べるワシを含む驚くべき多くの海鳥が消滅の運命にさらされた。深海が唯一の希望をもてるゴミ捨て場といっている人々がいる。このことも近視眼的である。増加していく世界の人口が、深海底全体を放射性核種、下水のスラッジや有毒物質で埋めつくされていくことになろう。海洋全体は数千年で混合している。それで既存の有毒物質を全体の海洋に混合させ、深海底から上昇させるには時間を要しない。私達はこれまでに沿岸水域を修復させることができないほど汚染させてきており、50年以上も何もしてきていない。もはや座って待っている余裕はない。数千年間、マリーナーは海とたたかい命を失ってきた。今や私達は征服者となっているが、どのような犠牲を払ってきたのか。海洋を救うために新しいタイプの勇敢さを必要としてきている。もはや勇敢な船長はいない。私達は海洋の資源を管理し、下水道として使用しないことを学ばなければならない。私達はもう一度海をとりもどさなければならない。数世紀にわたって探検と征服のため昔の人々がとり組んだ崇高な精神で海洋を清浄化しなければならない。」
 残念ながら日本人のほとんどの人には、この文章の意味がわからないだろう。中層流、湧昇流、深層海流の知識が日本で普及していない。放射性物質が10年で沈んだあと10年で浮かび上がってきたことについては、海洋の研究が進んでいる欧米では一般書に詳しく記述されているのだ。ワールドウォッチ研究所『地球白書』はアメリカで1,000以上の大学で生物学から政治学まで多岐にわたる学科で教科書として使用されている。27カ国にも翻訳されている。放射性物質がポッカリ浮かんでくることもアメリカの学生では常識になっている。
 ところが、わが日本ではロシアの放射性廃棄物は影響なしとの結論。その程度の知識レベルだ。カーソンにしても、レスター・ブラウンにしても、アル・ゴアにしても世界的に影響力のある人達だ。どんな形の難問かは予想もつかないが、新しい問がでてきそうだ。その時、海を知らない日本はその対応に苦慮することになるだろう。

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