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2.4時間テレビ 愛の不自由、 その後も感じる愛の不自由たち

NHKバリバラにて、去年8月末深夜に「2.4時間テレビ 愛の不自由、」が放送され、まもなく半年になろうとしています。
その日の深夜バリバラでは、自分の体や心に難を抱えていることが原因で二次的に恋愛やまじわり、「好き」の伝え方や交際などが不自由になってしまったり、一般的に普通とは異なったような見え方をする形を啓発する形で取り上げていました。
実は私もツイッターからリアルタイムコメントで参加しており、その意見を反映してくださった一節があります。
発達障害関係からの悩みで、恋愛がどう伝えれば良いのかわからない、何が「好き」という感覚なのかはっきりしない、という悩みもあります。しかも、私の場合は性的な感覚が非常に「鈍感」(HSPの逆でLSPという)であるため直接的表現でないと伝わりにくい、という難もあります。これは自分だけではなく他の人にとっても難に感じさせる事象でもあると思います。
このうち前者について、同じ悩みがあった当事者との恋愛をどううまくやっていけば良いのかというのを取り上げてくださって、共感と教訓を貰えました。

タブーとされがちだが、それではいけない重要な話でもあることを知る

恋愛や性の話題になると、人によっては汚穢(おわい)なイメージが付きまとってしまい話しづらい、忌避したくなる、ということは承知ですが、これは人生ではほぼ必要な知識であり出来事といってもよいことであるので立ち向かわなければいけない話題である、そして、忌避しないで慣れることに損したことはない、ということもバリバラから学んだことでした。

「愛の不自由、その後…」

この放送はツイッターのトレンドでトップを取るなどの盛り上がりぶりで、「障害があるか」というのは関係なく悩みを話し合っていた雰囲気がありました。しかし、その放送の後も「愛の不自由」を感じるという雰囲気は終わりませんでした。
しかも、「障害者」のみならずいわゆる「健常者」による愛の不自由を感じるつぶやきも多く見られました。

バリバラでは取り上げきれなかった「愛の不自由」たち

合計2.4時間とその後の番組『番外編』で30分だけでは、全ての不自由な形を取り上げるのはやはり放送作家でも無謀、本当に取り上げきれなかったことは時間に対する不自由でもあったし、取り上げられなかった不自由の当事者にも不自由に思われたかもしれません。
例えば、過去に恋愛に関するトラウマ(失恋、いやがらせなど)などが原因でPTSDになり恋愛が怖くなった場合や、元々恋愛に恐怖症があるという愛に恐怖をおぼえ神経障害をきたす不自由/性欲や恋愛欲がマイナスに傾いてしまう形、アセクシャルとは微妙に違って、「人間以外」に恋愛感情は抱きなかなか「人間」に恋愛感情を抱かないがそれにコンプレックスを持っている不自由の形もある、という声がありました。恐怖や心の悩みによる愛の不自由は、本当に沢山あり私と同じメンタルヘルスの当事者でも双極性障害とかだとまた違った不自由の形があるかもしれないと思っています。

愛の干渉による「愛の不自由」

これは本当に厄介な問題だと思います。番組でも触れていた一節で「過干渉」がエキスパートしてしまったケースに見えます。
デート中に外野から嫌味を言われて、素敵な時間が台無しになったとか、高校時代にはロマンス・青春を楽しみたいのに「お上(親・学校・自治体など)」がそれを邪魔されているように感じる、というものが挙げられます。例えば「不健全扱いされた」「存在してはいけないと言われるように真っ向から否定された」という場合があります。これは成人年齢に関する問題とも繋がっており、精神年齢が実年齢にそぐわず早く成長してしまう発達の形があることによる葛藤であると思います。

芸術・嗜好・表現に対する「愛の不自由」

こちらは、ほとんど他者攻撃による不自由が目立ったように思うことです。他者攻撃により不自由にする人を私は「加障害者」と名付けていますが、芸術に対する「加障害者」による恋愛やノベル作品、果ては漫画や絵にさえ向かう嫌悪ツイート、悪口や排外が挙げられます。これも「生きてはいけない、存在してはいけない」というかの如し「生きることに対する否定」につながるものがあります。神奈川県の津久井やまゆり園で起こった大量殺人事件に関する報道で、テレビ局が障害者に対するこのような趣旨の発言をするツイートなどを流した一連の流れと発信者による放火(ネット炎上の意味で)を思い出しました。以前からは漫画家の伊藤剛さんにより名付けられていた「萌えフォビア」現象もありました。医学的な精神疾患とはされていないものの(ただし、限局性恐怖症の中にこれに潜在的にあるかもしれない)、これによって不自由を被る者がいるという現状からこれも「愛の不自由」の形になっている、と言えていて、「不自由にさせられている」とも言えます。
不自由にさせている人が「性嫌悪」「性恐怖症」を持っているのに、その病識が自分にないケースがある場合もあると思いますが、このように自分の障害や難によって不自由を被るのではなく、他者から攻撃されて不自由にさせられている現象でありバリバラで取り上げられるような形とは違う「加障害者」の存在があるだろう、という事を感じたのです。

加害妄想による愛の不自由

前述とは逆に、「自分が他害行為に走ってしまうのではないか」という加害妄想による不自由もありました。これは法律や条例でストーカー規制法、迷惑防止条例などで定められていますが、それに対する「共依存」「性依存症」「パーソナリティ障害群」などの当事者が「いつか罪を犯してしまうのではないか」という加害妄想をしてしまう、というタイプです。これは、当事者たちによる心の問題を考えると、法律や制度もまだまだ改善していく余地があり、課題に挙げていくべきものだと思います。

今も続く愛の不自由。
この課題は、まだ沢山山積みになりそうです。

2020/01/25 追記
性嫌悪の項で触れた「病識がない問題」については、私が異常性を認知している関係で、なぜ同じ異常性といえるような他害行為があるのに「隠れ心の病気(または、その疑い)」のまま放っておく現象が起きるのか、という疑問と加害妄想がひどい時期があり見出しと逆の趣旨が書かれていたので何故だろう、という、心のモヤモヤがあったので同じく精神医療に携わっている西多昌規先生の著書により考えるようになりました。


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