『弱さ』を抱えて強く生きる
人間と一括りにしても、身体の大きさや脳や各臓器の機能には個体差が存在し、その強さにも差があります。
身体の大きい方が強いかと言えば、そうとも言えません。
身体的なぶつかり合いの強さだけでなく、特定の病気のなりやすさやなどの強さも存在しているからです。
そういった意味で、私たちは誰もが弱さを抱える存在です。
つまり、「生きている存在としての弱さをともに持っている」という根本的な意味において、私とあなたは対等なのです。
ただし、瞬間瞬間の私とあなたは必ずしも対等ではありません。
先ほど言ったように、私は何等かの病気を患っているかもしれません。
または、あなたは平均寿命を越えているかもしれません。
人の強さ、弱さは一定ではなく変動するものなのです。
人間の身体は、他の動物にはない高度な知性と巧緻性の高い行動を実行する身体を持ちます。しかし、高機能であるが故に脆いのです。
また、進化を促すために死という命の有限性も存在しています。
そして、”身体の脆さ”と”命の有限性”という二つの弱さを持つ心にも弱さを持っています。
私たちは弱い存在ではありますが、互いの弱さは異なっているのです。
ある状況では私が強く、別の状況では私が弱いかもしれません。
そうした前提を持って世論を眺めると、「弱者ポジション」を取り合いが起きているようにも感じます。
誰が最も弱く、誰もが最優先で支援されるべきかを、お互いが弱さを発表して競っています。
俯瞰で眺めると愚かな行動に見えますが、それほどまでに多くの人が病んでいるのかもしれません。
まさに今の世の中からは、『Care(ケア)』が失われています。
「他者から大切にされたい」という思いは人間の根源的欲求でもあります。
ところが、価値観が多様化する社会の中で孤立し、ケアを失っていく人が増えてしまったのかもしれません。
その結果、大切にされるためのポジションを奪い合っているように思います。
このような状況に救いはあるだろうか?と考えと、それは原始的な人間の愛情ではないかと思います。
人間だけが愛を無限に与えられます。
誰かを気遣うことで何かを失うことなどありません。
私たちは対等であるが、その弱さは変動します。
今日は私の方が強いかもしれない。
明日は私の方が弱いかもしれない。
誰もがそう思うことで、ほんのわずかでも誰かを気遣うことができるのではないでしょうか。
失ったケアを取り戻し、弱さを抱えて強く生きるために。
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