名前って単なる記号だから
5/27(木)
日記に書くネタがないので今日は日記を書かないことにするぞ、と思いながら、無意識にnoteを開いて「日記に書くネタがないので今日は日記を書かないことにするぞ」と書いてしまう。書き始めてしまったので、やっぱり今日も書くことにした。
最近、昔の友達に会ったりして名刺を渡す機会が増えた。「今何やってるの?」と聞かれて説明するのが面倒くさいので、少し前にサイト用の名刺を作った。私はサイトで「吉沢」を名乗っているが、本名は吉沢ではないので名刺を渡すと必ず「なんで吉沢なの?」と聞かれる。ペンネームにしては普通の名前なので、親が離婚したのかと思われることもしばしばある。
元々ネットで活動する以上本名は使いたくないなと思っていて、さらに本名の苗字は母音が全部aで言いづらい&パソコンで打ちづらいので絶対に変えようと思っていた。だからといって人と対面する以上「禅宗ポメラニアン」でやるわけにはいかないので、「禅宗ポメラニアン」の名付け親である友達に相談したうえで「吉沢」に決めた。語呂の良さと全体の字面の良さが決め手である。
私は吉沢という苗字にはなんの思い入れも愛着もない。というか、あえてなんの思い入れも愛着もない苗字にしたかったというのも少しある。知り合いにいる苗字とかにすると、名乗る時にその人の顔が逐一よぎりそうだな、と思うからである。吉沢という友達はいないので、よぎるとしても吉沢亮くらいで、逆にあの顔がよぎるならハッピーじゃん、と思う(よぎったことはないが)。
しかし当然、サイト関係でお世話になった人からは私は「吉沢」として認識されているわけで、メールやDMでも普通に「人間日誌 吉沢様」と書かれる。吉沢宛に届くものは毎回、誤送信か?と思ってしまうし、毎回「そうか、名前って名乗ったらその名前で呼んでくれるんだな」と当たり前のことを感じ、変な気持ちになる。
名前は確かにその人を示す記号でしかないわけだが、それにしてもこんな簡単に名前を偽れていいんだ、と思ってしまう。いや、偽っているわけではないんだが、何となく相手を騙しているような気持ちになるのは確かだ。
そう思うと名前って本当に変だ。大学でやったシニフィアンとシニフィエとか、記号の恣意性、みたいな言葉がここへきてぼんやり思い出される。
自分の中で、私がやりたいと思っていることを「吉沢」に業務委託しているような感じが常にする。吉沢が打ち合わせをしたり記事を書いたりしてると、よくやってくれてありがとよ、という気持ちになるし、なにか失敗すれば、こいつやっぱ仕事できねえな、と思う。とにかく吉沢は「私」ではないのである。
とは言っても私は吉沢なので、サイトをやる限りは吉沢としての責任を持たなければならない。まだまだ慣れないが、禅宗ポメラニアンを名乗らなくて良かったということだけは言える。「禅宗さん」などと呼ばれたら、おもろすぎて仕事ができないから。