それは愛か、憧れか、
はじめに
クリープハイプの皆さんへ
このような企画をしてくださり、ありがとうございます。
自分の話を少しでもしようものなら「隙自語り乙ww」と揶揄されるこの時代。
外野の言葉を無視して好きだなけ綴っていきたいと思います。
高校2年の夏───
テレビからは連日、過去最高気温を記録したと、はしゃぐキャスターの声が聞こえ、外に出ればいつまでも鳴り止まない蝉の声にうんざりしていた日々。
当時お付き合いしていた男性は、ホワイトデーのお返しに裸の1000円札を渡してくるようなデリカシーもクソもないような人で、それに加え、私が少しでも他の異性と会話すると殴ってくる、よくわからない人でした。
そんな彼と惰性で関係を続けていたある日のこと。
クラスメイトが「いいバンドを見つけた」と見せてくれたのがクリープハイプ【憂、燦々】のMVでした。
当時の私には刺激的な内容で、多感な時期の私は主人公の女の人と自分をどういうわけか重ねてしまって、吐き気と涙が止まりませんでした。
なんだこのバンドは、何だこの曲は。二度と見ない。
そうクラスメイトに断言したくらい第一印象は最悪でした。
数日後、【憂、燦々】で私の好みを外したと知った彼女が持ってきたのは、【左耳】と【社会の窓】でした。
今でも廃れることのないクリープハイプの代表曲とも言える曲ではありますが、「もう見ない」と断言した私に、同じバンドの違う曲を勧めてくる彼女のメンタルに若干引きつつも試聴しました。
【左耳】の刺すような高音で歌う尾崎さんと、【社会の窓】のテンポの良い歌詞、流れるようなギターリフ、そして、MVの演奏する彼らをみて泣き崩れる女性が強く印象に残り、その世界観(尾崎さんは嫌がるでしょうか)に一気に引き込まれていったのです。
今の時代であれば、“沼”と表すような、
クリープハイプの抜け出せない魅力=“クリープハイプ沼”へと片足を入れた私は、この日を境に恐ろしい速度で沈んでいくことになります。
ここからは少し趣向を変えて、私の経験を“沼”に変換して可視化してみようと思います。
出会い。沼・上層部
クリープハイプを知りたての私はしばらくの間ここに身を置いていました。
ライブに行くことに関して、親から一向に許可がおりない私は、毎夜YouTubeを徘徊し、お小遣いが出れば、CDショップに足を運びました。
JーPOPなんだかROCKなんだかわからないままに無数に陳列されているCDの間を行ったり来たりしてクリープハイプを探し歩き、棚に【GREEEEN】が見えると「お、そろそろだな。」とニヤニヤしていた記憶があります。
帰宅後は無事に購入したアルバムをiPodにインポートする作業。曲名の横にある⬇️が☑️に変わると、なんだかワクワクして、少しだけ欲求が満たされる感覚になりました。
わかりやすく言えば、仮装大賞の点数バーのライトが、ぽぽぽぽぽんと、抜けた効果音と共に灯っていくような感じです。
サブスクなんてまだない時代。
私の鞄にはいつもiPodが入っていて、絡まったイヤホンをほどきながら、気分や曲調ごとに分けられた幾つものプレイリストを選ぶ。
CDの歌詞カードを開いて、何度も聴いて、歌詞を覚える。私が出掛ければ、彼らが歌う。
そんな数ヶ月を過ごしていくうちに、クリープハイプが初めて生放送の音楽番組に出る頃には、カラオケの十八番がアイドルグループの曲ではなく、【オレンジ】になっていました。
沼の上層部で、同じような音楽趣味の友達と定期的に好きなバンドの感想会などを開いて楽しんでいた私のところへ
『クリープハイプが地元にライブにくる』
という情報が舞い込んできます。
このことがきっかけとなり、私はさらに沼の深みへと沈んでいくことになります。
初遭遇。沼・中層部
その知らせは、地方遠征なんて行けない高校生の私にとってメンバーに会えるかもしれない千載一遇のチャンスでした。
その時点でチケットは既にsold out。ライブに参加することは叶いませんでしたが、自転車で行ける距離にクリープハイプが来ることに胸を高鳴らせ、前日には友人と「もし、メンバーに会ったらどうするか。」「サインはもらえるのか。」なんて浮かれた話をしていました。
会えるかどうかわからない、でも会いたい一心で会場に足を運び、人生で初めて入り待ちなるものをしたのです。
入り待ちの仕組みも何も知らないライブ初心者の私は、会場に到着後、何となくそれっぽい人たちの間に場所をとり、携帯を開き時間を潰していました。
しばらくすると、大きなバンが会場の正面入り口近くに停車し、隣にいた人々がざわついたと思ったら、メンバーが車から降りてくるのが見えました。
本当に、同じ次元に存在している。
初めて生でクリープハイプを見た感想でした。
あまりにも安直な感想ですが、画面越しでしか見たことのない人たちが目の前にいることが不思議でたまらなかったのです。
メンバーが軽く会釈をして、私の前を通り過ぎるまでの間、金縛りにあったように声も出せず動くこともできませんでした。
4人の背中を見送った後、緊張が切れたように脱力した体を引き摺り近くのベンチに腰掛けました。至近距離でメンバーを見た私は興奮状態のまま、鞄の中のファンレターをどうやって渡すか、ということばかり考えていました。
しばらくすると物販の用意のため、会場から数人のスタッフの方が出てきたのが見えました。
スタッフの方に渡してもらおうと思い、ふと顔を上げると裏口から関係者らしき方と一緒に会場を出て行く尾崎さんが見えました。
気づいた時には追いかけていました。どう考えても痛いファンです。
小さくなる尾崎さんの背中に焦りと緊張を抱えながら、見失わないように追いかけました。
尾崎さんが曲がった角を数秒遅れで曲ると、少し離れた駐車場でポツンと一人で立っている尾崎さんがいました。その距離、約10メートル。
初遭遇という人生の一大イベントに私は完全にパニックを起こし、「ぎゃっ」と言う声を出した後、あれだけやった予行演習も、何を話そうか考えていたことも、全部ぶっ飛ばして動くことができませんでした。
自分から追いかけたにも関わらず、ただ、確かに尾崎世界観という存在を確認しただけでした。
余談ですが、その時見た、気怠げで、少し背中の丸まった尾崎さんは、いまだに私の脳内に棲み着いたまま、今年、無事に10周年を迎えました。
私のために。沼・最下層
初遭遇の感動を何度も思い出し、クリープハイプへの愛は冷めぬまま、月日は流れ、私は高校卒業後、京都の大学へ進学し卒業、社会人になりました。
親元を離れ成人を迎え、生活の為に仕事をしながら、合間を縫ってライブに行くと言う生活に充実感を覚えていました。
この頃から、私はツアーに行くたびにログとしてライブレポートを書くようになります。(決して人に見せられるようなものではありません。)
2016年ツアー『熱闘世界観』のアンコールで演奏された一曲を聴いた瞬間、衝撃が走りました。
マイクに縋り付くように、喰らいつくように歌う尾崎さんの姿、チカチカと輝く照明、全身に響くバスドラの音を感じた瞬間、体の底がグッと熱くなって、一瞬も見逃したくない、聴き逃したくない、と強く思いました。
それは、私が一番好きな歌でした。
何度もイヤホン越しで聞いたあの歌声。
イヤホンのものではない音質、音量、熱気が私の体にぶつかったとき、本気で「私のために歌ってくれているんだ」と思うほど心酔していました。
演奏する4人を眺めながら、不意に昔の彼と最後に会った日のことを思い出しました。
「別れたくない」と私の前で初めて泣いた姿と、就職したあと一度だけ連絡がきたこともセットで。
「最近どう。元気?」
テンプレートのようなメールに、
「元気だよ、そっちはどう?」
なんて、これまたテンプレートのような文章を送り返す中で、彼が婚約したことを知らされました。
私が社会人になったように、彼もまた次のステージへと進んでいたようです。
「奥さんのこと殴ったら離婚されるかもしれないから気をつけなよ」なんて皮肉の一つでも送ってやろうかと思いましたが、やり取りしていたのはショートメールだったし、こんなしょうもないメールに幾らか支払うのもバカらしくて、受信メールを削除しました。
そんなことを思い出しているうちに、曲は後半に差し掛かっていました。
私の大好きなバンドの大好きなフロントマンが感情をぶつけるように歌うのを聴きながら、【君の部屋】の歌の中を生きる“僕”を想いました。
自分が思っていたよりもずっと、相手のことを好きだったのに、それに気づかず離れてしまった。現実ではよくあることだけれど、“僕”の後悔や未練が溢れ出ているような歌詞が好きでした。
少しだけ元彼が重なりました。
クリープハイプの楽曲はこんなクソみたいな記憶のそばにもいてくれました。
その日以来、【君の部屋】は、『たくさんある好きな曲』から、『クリープハイプとの思い出の1曲』となり、当初はくるぶしほどだったクリープハイプ沼への沈み具合も、水位は頭上を悠に越え、光の届かない暗い深いところまで来ていました。
こうなってくると沈むどころではありません。
もう沼の住人です。
沼は続くよ いつまでも
あの日から4年。私は沼の住人として、誇りを持って活動していましたし、まあまあ歳を重ねていました。
2020年のツアーが発表され、先述した『私とクリープハイプとの思い出の曲』の一節がタイトルになったと知った瞬間の私の喜びは、想像に難くないでしょう。
公式からのお知らせに興奮し、周囲の知人にどれほど私がこの曲が好きかということ、クリープハイプと私の思い出、ライブで演奏してくれた日は必ず尾崎さんに「君の部屋、演奏してくれてありがとう」と伝えていたからきっとこのタイトルにしてくれたんだ、などと根拠もない思い込みを吹聴してしまうくらい、浮かれていました。
そんな矢先、10周年ツアーが公演中止になったとのお知らせが届きます。
通知をみた途端、思考が停止し、目の前が真っ暗になりました。
しかし、残念なことに私には、慰めてくれる人も、倒れた私を棺桶に入れて教会まで引き摺って行ってくれるような人もいませんでしたので、完全に復活する手立てを失った哀れな太客の誕生でした。
本当に悔しくて悲しくて、信じられない気持ちでいっぱいでしたし、払い戻しのご案内、なんてメールに心を抉られました。
次のライブは未定のまま、棺桶に引きこもった私を置いて、無情にも日常は続きました。
そんな私にとってメンバーの皆さんが想いを発信してくれたことは救いの手でした。皆さんの言葉が、あの日やる予定だったセットリストが、私を教会まで運んでくれました。
悲しくて悔しいのは自分だけではない、とちょっとだけ前を向けるようになりました。
ライブでの悲しみはライブでしか拭えないということを初めて実感し、また一つ、クリープハイプとの大切な思い出が増えました。
おわりに
この企画を通して、たくさんの人が、それぞれの人生の中でクリープハイプに出会い、それぞれの生活をクリープハイプと共にしてきたことが可視化されました。
人の数だけ、クリープハイプとの思い出があって、人の数だけ、クリープハイプへの想いや、愛がある。もちろん、私にも。
古参ぶるつもりはないけれど、あの日からクリープハイプを追い続けている私の想いに嘘はなくて、尾崎さんが私たち(太客)に対して真っ直ぐに思いを伝えてくれるように、私もずっと箪笥の奥に仕舞い込んでいた、あなたたちへの愛を、言葉で、文章で伝えたいと思いました。
いつだったか、尾崎さんはファンの人は普通でいてくれたらいい。とおっしゃいました。生きて普通にそこに居てほしい。と。
ちょっとしたことでリアコを拗らせてしまう私は、他人とは少し普通の概念がずれているかもしれません。
ただ、死んだ人には尾崎さんは歌ってくれないから、これからもクリープハイプの音楽と一緒に生きていけたらいいな、と思っています。
あの日、高松のライブハウス裏で出会った時、何もできなかった自分への後悔や、完走できなかった幻のライブや、あなたたちの音楽に包まれて味わう感動と興奮も含めて全部、クリープハイプを愛することの糧となっています。
音楽はいつもそばに居てくれたなんて、ありきたりな話だけど、私の人生はそんな簡単なものじゃなくて、苦しい時も、嬉しい時も、ムカつく時も、眠れない夜も、いつでもクリープハイプの音楽に、尾崎さんの言葉に救われて、しがみついて何とかここまできました。
またライブに行きます。これからもそばに居させてください。
会場に来た客が私だけになったとしても、最期までクリープハイプとして、私の前に立っていてください。
私はこれからも、あなたたちを愛し、応援しています。
最後になりましたが、長くて、独りよがりな文章を読んでいただき、ありがとうございました。
私にクリープハイプを教えてくれた彼女と、
クリープハイプに
沼から、愛を込めて。