アーカイヴの創造性
本記事では、アーカイヴという観点から、パクチーハウスの未来を考える。
『美術手帖』2021年4月号の特集、アーカイヴの創造性を読んだ。保存や修復についてさまざまな考え方があると知った。単に倉庫にしまうのではなく、どうすれば未来に再現できるのか。作品自体が時代に合わせて進化していくものだとすれば、それをどうコントロールするのか。保存が効かないものをどう、アーカイヴするのか。
鋸南エアルポルトの名誉アーティストのYellowYellowさんが、世の中の不要な黄色を彼にとって必要な黄色のインスタレーションに変えていく過程で行っている「黄色交換市」にて、彼はよく「バナナの皮でもいいんですよ」と説明している。もし本当に持ってくる人がいたらどうすればいいかと問うと、冷凍保存しておいてくださいと答える。次に彼が来るまで冷凍庫にバナナの皮を置いておくのは嫌だなと思いつつ、実際バナナの皮を交換しに来た人はまだいない。彼が実際、どうアーカイヴするのかには関心があるので、今度、他所の黄色交換市にバナナの皮を持って行ってみようか。
店舗をアーカイヴ
さて、僕が3年前に行った、パクチーハウス東京の閉店と無店舗展開化は、アーカイヴという行為だった。
アーカイヴとは、重要記録を保存・活用し、未来に伝達すること。
そこで終わりではなく、永遠に続くために、店舗という形を無くしてコンセプトを生きながらえさせる。
自分の視点でなく、他者から見た客観的なパクチーハウスを記録しておくために、『89の証言集』という書籍をつくった。これは必読のアーカイヴだと思っている。
無店舗展開
店舗があることは楽である。説明は不要だ。そこに店舗があるから。
一方で僕は、パクチーハウスを持ち運びができるものにしたかった。世界中どこでも、それがほしいと思えば手に入る。僕がパクチーハウス○○というのを国内外各所で行ってきたのはその一例だし、パクチー銀行が種を配布していること、そしてすべてのレシピを公開していることは、僕以外の誰もが、望めばパクチーハウスを作れるということでもある。
店舗が無くなることは、無に帰するということではない。単に食事を提供するだけでなく、交流する飲食店として10年間運営したので、人と人とがかなりの数、会話を交わし、関係を結んだ。食事会をするサークルのようなものが無数に生まれたし、たまたま知り合った人に刺激されて転職をしたり、一緒に起業することになった例も数多ある。店舗があるかないかにかかわらず、彼らの脳にはパクチーハウス がインストールされ続けている。
全緑を尽くしたい
パクチーハウスで交流しない人がいた。もちろん、それは自由である。強く勧めはするが、全員に強要したりはしない。創業から数年の、「得体の知れない」店だったときは、そういう人は極めて少なかった。来る人はみんな好奇心剥き出しだから、僕の話に納得するか、話を聞く前から勝手に「そういう場所である」ことを理解して行動した。
それなりの有名店になり、テレビで見たから、好きな芸能人が行ってるから、パクチーハウスに来る人が次第に増えて行った。「予約の取れない店」となったのは利益の増大を目指すという観点からは素晴らしいことだ。しかし、人生を生きていて、店舗を運営していて、お金を得るということはたくさんある目的のうちの一つに過ぎない。
必要なのに店に来れない人がいる。このことに僕は深い悩みを抱えていた。僕が運営する空間に人生を変える覚悟のない人は、来ないで欲しいと思った。全緑を尽くさない人を相手にしていたら、短い人生はあっと言う間に終わってしまう。
パクチーハウス○○は、パクチーハウスを絶対的に必要している人と、パクチーやパクチーハウスのことを、放って置いたら絶対に関心をもたない人にために時折開いている。月に1〜2回しかやらないので、目の前にいるお客さんに全集中できる。偶然居合わせた人も含めて、心を揺すぶることができていると思う。
パクチーハウスは10周年パーティの少しあと、2017年12月11日に閉店を電撃発表した。89日後の2018年3月10日(僕の43歳の誕生日)に、89人でパーティをして店舗を無くす。そのための準備に、約2年をかけた。店舗を無くすことによって、すべての人からパクチーハウスが忘れられてしまうという恐怖はあった。でも、それによりパクチーハウスを永続化できるかもしれないと思い、その賭けに出た。
未来に伝達
SNSで今でも、パクチーハウスの思い出や行かなかったことへの後悔を書いてくれる人がいる。可能な限りコメントを残し、必要に応じて一緒にパクチーハウスを作っている。パクチーハウスは、その存在を願えばそこにあるのである。
アーカイヴしたパクチーハウスは、日常的には物理的に見ることができない。だからこそ、「今」に消費されない。そして僕は、パクチーハウスを「未来」に伝達するために、日々さまざまな活動をしている。