紫の神秘なる染料の歴史
人の歴史は色の歴史でもあります。色と人の関わりを探る特定の色を追う色の冒険。色がある背景には、不思議な偶然、そして偶然を取り巻く人の物語もあったはずです。紫の色を求めて世界へ旅に向かいます。
○地中海に見られた高貴な紫
まずみなさんをお連れしたいのは、紀元前の地中海東岸にあるフェニキュアの街。メソポタミアとエジプトとの間にあり、クレタ文明の影響も受け、地中海を舞台とした海上交易が盛んだった古代都市です。クレタ文明はエーゲ海を中心とした青銅器文明で、地中海交易で発展し、壮大で複雑な構造を持つ宮殿をいくつも建築したとされています。宮廷の女性たちはすでに明るい模様の服を着ていたとされています。
紀元前1600年になると、フェニキア人は地中海に生息する巻貝の内臓にある分泌腺から紫色の染料を発見しました。しかし、この染色法は手間がかかり非常に高価なものでした。この紫の染物はローマ帝国では非常に高価なものとして特権階級の人たちのみが手にしました。フェニキア人が作る貝紫(ティリアンパープル)の魅力は、その光沢の美しさ、高貴さにあります。光の反射によって深みのある紫から、まるで宝石のような輝いた光を放ちます。
紀元前、都市シドンの近郊に住むセオとウマルの兄弟は、父の貝染めの仕事を手伝っていました。早朝、兄弟は地中海のサンライズイエローを浴びながら、網にかかった「シリアツブガイ」「ミゾマキクチベニレイシ」といった貝を取り、殻を割って口を開けます。貝のエラ近くにあるパープル腺と呼ばれる部分を取り出す。このパープル腺が空気に触れると黄緑、青、そして紫へと変わるのです。子どもにとってはこの仕事は辛いものだったに違いありません。
「兄ちゃん、この臭いなんとかならないの」
弟のウマルは布を顔の下半分に巻いて、呆れたような声を出しました。
「仕方ないだろう」
兄のセオは黙々と作業を続けています。そして、チラリと弟を見てから続けました。
「父ちゃんが言っていた。この貝は海の神ヤムの弟のモトの涙を集めるているんだって。モトは「死」の神。その涙は生と死の間にあの世にあるもの。だから、こちらの世界の空気に触れると美しい紫の色になるんだって。この紫は美しく、人を死に誘惑する色って言ってた」
「ふーん」
「人間にそんな美しく危険なものを持たせないように、ひとつの貝からは紫に染める涙は、とても臭いをつけられていて、人が簡単には集められないようにしてるんだってさ」
「ふーん。だったら、神様に逆らってもきっといいことないよ。そのうち神様が怒って人と人を争わせて、みんな死んじゃうよきっと」
「大丈夫だよ」とセオは笑いました。
不安そうなウマルを見て「大丈夫、ウマルは死なないし、俺が守ってやるから」
その言葉に呼応するように、海からの風が吹き上がり、セオとウマルの紫に染まった服を大きく揺らします。
フェニキア人はギリシャ人から「紫の民」と呼ばれていました。これはフェニキア人の服や肌にも紫の色が付いていたからです。
「それにしても、今回はなんでこんなに集めるの」
「他国の王様がお求めだなんだってさ。父ちゃんがいつもより金になるって喜んでたよ」
「ふーん」
紀元前323年、古代ギリシャのアレキサンダー大王が亡くなったとき、金の刺繍された紫のローブが棺の上にかけられました。アレキサンダー大王は紫を自分だけの色として決めていました。セオもウマルはそのローブの染料を集めていました。何しろ、この作業が何しろ手間がかかります。1gの染料を取るには、2000個ほどの貝が必要で布を1枚染めるのには数万個の回を必要としました。染めた布を売りさばく仲介業者がいて、彼らは手間がかかることを理由に高価な値段をつけるのです。業者は街の職人たちの数倍もの報酬を得ていました。この時代の紫は権力と富の象徴だったのです。貝紫(ティリアンパープル)は帝王紫と称されました。15世紀にオスマントルコに征服されて歴史から消えるまで、地中海沿岸と沿岸諸国を彩りました。
○紫野に咲く優雅な紫
次に飛鳥時代、平安時代の日本を覗いてみましょう。
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