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自動書記への扉

人によって、考え方のまとめ方というのは様々であろうが、
私にとって最適なのは、こうして「入力すること」だ。

何か目的があってパソコンの前に座るわけではないが、
始めてみると手が動き出す。

「そうではない。思考がスタートしているのだ」と
思ったこともあったが、
考える前に指の方が早く動き出すので、
これは『自動書記』であることを認める。

まるで、入力すべきことを隣りでささやかれて、
それを一字一句聞き洩らさぬように慌ててタイピングするかのように、
手が動くときは、私自身の中では瞑想のような状態である。

ただ一心に、落ち着きと静寂の中で、画面が文字で埋まっていく。

心地の良い時間だ。

入力が終わって保存をして、一拍おくと、何を入力したのか覚えていない。

そんなことの方が多い。

10年ほど前になるか、もっと前か。

別なところでブログを書いていたことがあったが、そのころはほぼ毎日。

1時間から2時間、あっという間に1記事を書き上げるという感じだった。
体感としては15分ぐらい。集中していると時間が経つのが早い。

その後、現実的に対処しなければならないことが重なり
次第にブログから遠ざかっては戻ってを繰り返し、
このブログも1年ぶりぐらいかな、と思う。

ときどき、facebookに文字を入力し始めると、
自動書記が始まってしまうことがある。

長文で「読むのが大変」「途中で読むのを諦めた」とコメントを
いただくこともあるが(笑)、私はやりたいことをするまでだ。

そして、読むかどうかもその人次第なので、自由にしていただきたい。

誰に宛てるでもなく、目的もないが、言えるのはただ一つ。

自分と向き合う時間はかけがえのないものだ、と思う。

精神世界は非現実と言われることが多いが、
現実を創っているのは自分自身だということが分かると
自分の外側で起きていることこそが非現実であると理解できる。

同じ出来事を前にしても、捉え方が様々なのがいい例だ。
同じ映画を観ても響く場所が違うのは、自分というフィルターを
通して物事を見ているということ。

自動書記を未来予知などのリーディングに使用する人もいれば、
私的な瞑想に使用する人もいる。

私はどちらかと言えば後者であるが、しっかりと「上」に
繋がるときには誰かのヒーリングのような効果をもたらすようだ。

でもそれは結果であって、手段ではない。
手段として用いることもできようが、
何を問いかけてみようかと思考している間に感性が曇ってしまう。

リーディングするときはテレパシーを用いる方が効率的だ。

私は人が好きだ。
目の前の人が、その人生の一部分を見せてくださるセッションを
愛している。
目の前の人が力を取り戻してアップデートしていく様は
奇跡であり、その瞬間の目撃者となることは得難い経験だ。

長いバケーションを終えて、そろそろ対人援助の方へ戻ってこよう。
突然そんな気持ちになったので、記録する。

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